【黙示録16章18節~21節】黙示録6章と16章の地震の比較

再臨を待つ

黙示録16:20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。

最後の鉢が空中に注がれました

第七の御使いが、鉢の中身を空中にぶちまけました。

黙示録16:17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。

主なる神は「事は成就した」と言われました。神の憤りの最後の鉢が注がれたのです。

黙示録16:18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。

これは、終わりのときの最後の大地震です。

そうであるはずです。このような大きな地震が何度も起こるならば「この地」は決して持ちこたえることはできないでしょう。

黙示録16:19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。

「あの大きな都」とは、大バビロンのことでしょうか。エルサレムだという意見もありますが、それはないだろうと私は思います。

主は、大バビロンと呼ばれる大きな都に激しい憤りを注がれます。大バビロンについては、また17章と18章で詳しく学びましょう。

さて、それにしても、この七つ目の鉢のさばきは「どのくらいの期間」続くものなのでしょう。

この「大きな地震」は、ハルマゲドンに世界中の王たちが集まった後で、起こるのでしょうか。黙示録を順番に辿るとするならばそうですよね。そうなると、大バビロンは「ハルマゲドン」の最中に壊滅するということなのでしょうか。

黙示録を「順番通り」に並べるのは骨が折れますね。それは、とても難しいことです。私も、薄っすらとそれは不可能なのだろうなぁと気づき始めています(笑)

ジャック・ヘイフォードのような説教者や、G・Kビールのような神学者は、この16章14節の大地震と6章12節の大地震は「同じ地震である」と言っています。

第六章と十六章に書かれている災害は、異なる視点から見た同じ出来事です。それは、どんな地震システムでも起こすことのできないような天体地震を引き起こす地球規模の衝撃であり、単なる大地震を超えた宇宙の出来事なのです。
地震-終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション

あなたが覚えておられるかは分かりませんが、黙示録6章の学びの際、この出来事は16章に入ったときにもう一度詳しく学びますと予告していました。

ですから、6章と16章を合わせて学びたいと思います。結構ややこしい話になりますが頑張りましょうね(笑)

さて、本論に入る前に、一つ前置きしておきましょう。

私は今回の学びにおいて「事の起こる順に記されている」とする意見が正しいとか間違っているとか言いたいのではありません。逆に「二つの地震が同じである」とする意見が正しいとか間違っているとか言いたいわけでもありません。

ただ「このような意見もあるのだ」と紹介したいだけです。

あなたが「このような意見もあるのか、本当のところはどうなのだろう」とか、「この箇所はどういう意味なのだろう。こうも考えられるな」などと言いながら黙示録を読んでくれたらいいなぁと思います。

今回の学びが終わった後、あなたが「黙示録は興味深い」「もっと知りたい」「もっと学びたい」と考えてくれたなら、とても嬉しいと思うのです。

月が赤くなる?

さて、黙示録6章の記事を読んでみましょうか。

黙示録6:12
また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

これは、子羊が「第六の封印」を解いたあとに起こる地震です。

子羊が第六の封印を解いた後、大地震が起こり、その後「天変地異」が起こります。

黙示録6:13
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。

これらの聖句は、イエス様が予告された「再臨の時」の描写と非常によく似ています。

マタイ24:29
こうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。

マタイ24:30
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

このように見ると、黙示録6章に記されている地震は「最後の大地震」の描写であるようにも思えます。

イエス様と黙示録6章は、同じことを言っているようですが微妙に違います。

イエス様は「太陽は暗くなり」「月は光を放たなくなり」と言われました。

一方、「毛織りの粗布のように黒い太陽」と「血のように見える月」というのが黙示録6章における描写です。

太陽が暗くなれば、当然、月は輝きません。つまり、月も暗くなるのです。世の終わりには、太陽は光を失い、それに伴って、月も暗くなります。

しかし、黙示録6章は「月は血のように赤くなる」と言っています。

自然界において、月が赤く見えるという現象はたびたび起こります。

月が赤っぽく見えるのは、大気の影響による現象で、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由です。月の出、もしくは月の入りのときのように、月が地平線(水平線)に近いときに、赤っぽく見えやすくなります。
大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 国立天文台

また「皆既月食」の時にも、月は赤く見えます。

皆既月食中には、月が本影の中に完全に入り込みます。しかし、皆既月食中の月は真っ暗になって見えなくなるわけではなく、「赤銅(しゃくどう)色」と呼ばれる赤黒い色に見えます。
これはなぜでしょう。
地球のまわりには大気があります。太陽光が大気の中を通過する際、波長の短い青い光は空気の分子によって散乱され、大気をほとんど通過することができません。一方、波長の長い赤い光は散乱されにくく、光は弱められながらも大気を通過することができます。これは、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由です。また、大気がレンズのような役割を果たし、太陽光が屈折されて本影の内側に入り込みます。このかすかな赤い光が皆既月食中の月面を照らし、月が赤黒く見えるのです。
大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 国立天文台

つまり、地平線の近くにある月であっても、皆既月食中の月であっても、まったく太陽の光が存在しないのならば「赤く」見えることはないのです。

イエス様は「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり」と言われました。

これは、分かりやすいですね。そのまま「太陽が暗くなったので、月も暗くなった」ということです。イエス様の再臨の直前、地上から「太陽と月の光」は失われるのです。

問題は、黙示録の描写ですね。

「太陽は毛織りの粗布のように暗くなり、月の全面が血のように赤くなった」

太陽は「毛織りの粗布をまとったように」と解釈することもできます。そうすると、太陽に「何らかのおおいがかかった」ということになりますね。

最初、私は「皆既月食」のことなのかなぁと考えました。しかし、そうであれば、太陽が「おおわれる」というのは変ですよね。先ほど引用したように「太陽の光」がなければ「月は赤くならない」のです。

だとすれば、この現象は何なのでしょう?

世の中の学者の中には、この聖句をもって「黙示録には科学的根拠がない。神話だ。フィクションだ」と言う人もいます。まあ、言わせておけばいいのです。

神様のことばを弁明したり、科学的根拠をもって応援したりする必要はありません。主のことばは「完全で、ことごとく正しい」のです。今、科学や歴史的根拠を盾に、聖書を否定している人々は、後々、大いに恥を受けることになるでしょう。

それでも、あえて少し物理的な説明を試みたいと思います。

実際に、地上で「太陽がおおわれて」同時に「月が赤く見える」という事象は、過去に数件ほど確認されています。

例をあげると…

2011年、チリにあるプジェウエ火山の噴火と皆既月食が同時に発生しました。その際、空に広がった噴煙と灰の粒子によって太陽の光がさえぎられ、夜空を見上げた多くの人々が「血のような赤色」を見たと証言しているそうです。

ちょっと著作権がややこしそうで、直接引用できそうな記事を見つけられませんでしたが、だいたいどの記事も要約としては以上のようなものです。

つまり、太陽が「火山の噴煙」や「山火事の煙」もしくは「大気汚染」などでさえぎられた場合、太陽から出る光線の一部が遮られて、月が「赤く見える」という現象が起こり得るということです。

この「太陽がおおわれる」という現象に関して、チャック・スミス牧師はこのように言っています。

何千トンもの埃やちりが空中に舞い上がるとちょうど火山の噴火のように地球の大気を変化させてしまいます。その中では、太陽は暗く、月も血のように見えるでしょう。~中略~
アリゾナの砂漠に落ちたような、あるいはそれ以上の隕石が何十、何百と地球に落ちて来るのを想像してください。いったいどれだけの破壊がもたらされるでしょうか。
黙示録の封印を解く チャック・スミス プリズム社

子羊が第六の封印を解かれたとき、天の星も地上に落ちます。もちろん、この隕石の衝突が原因で「月が血のように赤くなった」のではないかもしれません。けれど、このような意見もあるということです。

個人的な意見としては…

黙示録6章の地震を伴う天変地異と、イエス様の言われた「最後の天変地異」とは、別のことではないかと考えます。つまり、第六の封印のときに起こる地震は「最後の地震」ではないと私は思うのです。もちろん断定はできません。その他の聖句を比べて見ると、少し自信が揺らぐのも事実ですから(笑)

さて、あなたは、どう思いますか?

その他の聖句も何度も読んで、ぜひ、考えてみてください。

6章と16章との比較

では、黙示録16章の地震について、も一度見てみましょう。

黙示録16:18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。

ここで分かるのは「これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった」ということです。この地震の前には「これ以上」の地震が起こったことはないのです。

もう少し見てみましょう。

黙示録16:19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。

この地震によって「大バビロン」と呼ばれる都が「三つ」に裂かれます。これは、かなりの衝撃であることが想像できます。都市が避けるなんてことが、映画のシーンではなく本当に起こるのです。

黙示録16:20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。

正直に言って、私には想像もできません。島々が「逃げ去る」とはどういう意味なのでしょう?

ヨハネの目には「島々が逃げ去るように」見えたのでしょう。恐らく、ヨハネの視界から「消えた」のだと思います。同じように「山々」も見えなくなったのです。

「見えなくなった」とは、原語の意味は「見つけることができなかった」です。使徒ヨハネは、山々を探してみたけれど、どこにも見つけることができなかったということでしょう。

とても恐ろしい地震です。本当に「いままでかつてない地震」なのです。

イザヤ2:2
終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。

これは「霊的な意味」において、シオンの山が栄光に輝くことを「高い」と表現しているのだと解釈されます。

しかし、これを「本当に物理的に起こることだ」と解釈する先生方もいます。

シオンの山の高さは「約765m」です。まあ、丘と言ってもいい高さです。富士山の高さが「約3776m」と言われますから、それと比べるとかなり低い山ですね。

しかし、終わりの日の大地震によって、すべての山々が崩れ去るとしたら…

もしかすると、シオンの山が「もっとも高い山」になるのかもしれません。

私は、ひそかに、実際にそうなるのでは…と思っているのです(笑)

ですから、私は、個人的に黙示録16章の地震が「最後の大地震」なのだと思っているのです。

さて、それでは黙示録6章の聖句と比較してみましょう。

黙示録6:14
天は巻物が巻かれるように消えてなくなった。すべての山と島は、かつてあった場所から移された。

天は「消えてなくなった」とは「引き裂かれた」「分離した」という意味です。何らかのことが「天」に起こったのでしょう。

そして、すべての山と島は「かつてあった場所から移され」ます。

山と島は「移動」しますが消え去ってはいません。ここは「場所を移す」という意味の語が使用されています。

この箇所が、黙示録6章の地震と16章の地震の一番大きな違いです。

6章すなわち第六の封印が解かれたときに起こる地震の時には、人々は「山の岩間」に身を隠すことができます。つまり、位置はずいぶんと変わってしまうのでしょうが「山々」は存在するのです。

しかし、16章すなわち第七の鉢の地震のときには「山々は見えない」つまり「見出せない」のです。

個人的には、この箇所の違いは大きいなぁと感じています。

けれど、この二つの個所の違いは、さほど大きいものではないという意見ももちろんあるのです。

これは、言ってみれば「カメラの位置の違いだ」と言うのです。

つまり、六章は「全世界の終わりを天からの広い視界で見ていて、激しく地が揺れ動くさまを描写している」のです。

それに対して16章は「全世界の終わりを地上の視線で、何もかもが変わってしまった崩れ去ったということを描写している」というのです。

同じ場面を、より臨場感をもって伝えているのだという解釈ですね。

この二カ所の部分は、すべての概念を解き明かし、黙示録を理解するための鍵となります。この部分は、私たちの視点を、黙示録によく使われる直線的なアプローチではなく、本当の預言的な部分へと導いてくれます。
地震-終末のミステリー ジャック・ヘイフォード著 マルコーシュ・パブリケーション

二つの聖句を比べて見るという方法は、なかなか面白いですよね。

直線的なアプローチというのは、黙示録を順番通りに見ていくという方法です。基本的に、私はそのように読んでいますが、それだけでは説明がつかないことが多々あります。

ジャック牧師は「黙示録は球体のようなものだ」と言っています。つまり、直線ではなく「丸いボール」のような球体として学ぶと分かることがあると言うのです。

さて、ここまで、話して来て、私が個人的に「二つの地震」を同じものとは考えてはいないことはお分かりになったでしょう。

しかし、今回、あえて、このように比較したのには理由があります。

自分の考え、誰かの考え、伝統的な考えから自由になって、ただ聖霊様に教えてもらいながら聖書を読むことが大切だということを知って欲しいのです。

私は、ずっと黙示録を「直線的」に学んでいました。けれど、25年ほど前に「地震-終末のミステリー」という本を読んで、かなり衝撃を受けたのです。

「こんな読み方があるのか」と心から感動したのです。私は感動しましたが、著者であるジャック牧師は「人とは違う意見を述べることには戸惑いがあった」と言っています。

伝統的な解釈や図表があたかも黙示録の最終的な権威であるかのように書かれている「知ったかぶり」の書物が、巷にあふれています。もちろん、それらの解釈は決して最終的なものではありません。けれども、だからと言って私が違った視点に立っていることに人々が失望しないという保証はないのです。私は本書に記されていることに確信を抱いていますが、必ず批判されると分かっている仕事に取りかかるのは、できれば避けたいと思っていました。
地震-終末のミステリー 序章 ジャック・ヘイフォード マルコーシュ・パブリケーション

お分かりでしょうが、私は、彼の意見にすべて同意したというわけではありません。地震についても、私は二つを同じ地震であるとは考えていません。しかし、全部において「同意できない」ことは悪い事でもないし、敵対することでもないでしょう?

今後も、私は黙示録の学びを続けます。そして、その過程において「コロッと」意見を変えることもないとは言えません。5年後、まだ生かされていて、再び、黙示録のメッセージを語ることが許されたなら、もしかすると今回とは「まるっきり違う内容」をシレっと話しているかもしれません(笑)

大切なことは「自分の意見に固執すること」ではありません。「自分の意見を確立するため」にみことばを学んでも害になるだけです。「知ったかぶり」には注意しなければなりません。聖霊様の教えてくださることに心を開かなければ、聖書の学びに何の意味があるでしょう。

私は、ジャック牧師の本を読んで、黙示録を「礼拝の手引書」「預言書」として学ぶようになりました。そして、いろいろな角度から考えてみるということを覚えました。「本当の預言的な部分」に導かれるようにと祈りながら学ぶようになりました。それは、私の聖書に対するアプローチを変える大事件でした。

愛する兄弟姉妹。

聖書を学ぶことは、本当に楽しいことです。

興味をもって読むことは悪いことではありません。教えられたことに「疑問」を持つことは罪ではないのです。

「はたして本当にそうなのか?」と熱心に調べることは良いことです。

聖書の個所を「ここか、あそこか」と調べて過ごすのは、私にとって最大の楽しみです。

聖霊様と一緒に聖書を学ぶことは、発見に満ちています。

きっと、あなたも楽しく感じると思うのです。

今回は、少しいつもと違う学び方をしてみました。

あなたが、聖書って面白いなぁと少しでも感じてくれたなら、この試みは成功だったと言えます。

すべての聖徒に、みことばを味わう楽しみを…

主が、あなたに喜びの油を注いでくださいますように。

聖霊が、あなたに、みことばを啓示してくださいますように。

シャロームを祈ります。