【黙示録16章17節】「事は成就した」と言った。

再臨を待つ

黙示録16:17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。

空中に注がれました

さて、前回、私たちは「世界の王たち」が一つの場所に集められたところまでを学びました。

黙示録16:16
こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。

世界中の権力者たちが「ハルマゲドン」に集まって来ます。彼らは戦いのために集まったのです。

そうして「終わり」が来ます。

黙示録16:17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると、大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。

第七の御使いは、空中に鉢の中身を注ぎました。

ここで「注いだ」と訳されている語は「大量に流す」「注ぎ尽くす」「流出させる」と言う意味です。

イメージとしては「器をひっくり返して空っぽにする」「全部をぶちまけた」という感じです。

御使いが「空中」に鉢の中身を注ぎだすことについては諸説あります。ですから、私がそうかもしれないなぁと思う二つの説だけを紹介します。

「鉢を空中にぶちまけた」とありますから、このときは空気も害を被るのです。主イエスが来られる数週間前(もしくは数日前)のこの世の状態を、だれが想像できるでしょうか。おびただしい数の人々がイスラエルの麗しい山で殺され、その血が深い川のように流れるだけでなく、人が普通に呼吸することさえできなくなるとは。
黙示録 J・Bカリー著 伝道出版

最後の最後のとき「空中」に害が及ぶのは確かなことです。

空気が汚染され、人々が呼吸困難に陥ることもあり得るのかもしれません。

ヘブル語では「のど」と「たましい」は同じ単語です。「息」が苦しくなることは「たましい」の苦しみを象徴しているのかも知れません。

もう一つの説は「空中」とは見えない世界のことであるとするものです。

エペソ2:2
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

終わりの日にも「空中の権威を持つ支配者」は存在しています。「不従順の子らの中に働く霊」も存在します。

見えない領域において、悪霊の働きは続いているのです。

多くの人が「第七の御使い」が金の鉢をぶちまけた「空中」とは「見えない領域のこと」であると言っています。私も、そうではないかと思います。

神の最後の憤りの鉢は「空中の権威」に対して注がれるのではないでしょうか。

第五の御使いは、見える所にある権威、すなわち「獣の座」に御怒りを注ぎました。

そして、今度は第七の御使いが、見えないところにある「空中の権威」に御怒りをぶちまけるのでしょう。

それは、恐らくですが、「見える領域の空気」にも影響をもたらすのではないでしょうか。ですから「空気」が害され、人々が息苦しさを覚えるのではという意見も一理あるなと思うのです。

愛する兄弟姉妹。

これは「霊の戦い」です。

私たちは、聖書が「霊的な戦いの書」であることを覚えていなければなりません。

いつも言うように「見えるもの」が「すべて」ではないのです。

最後の神の憤りは「空中」に注がれます。

エペソ6:12
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

私たちの格闘は「血肉」に対するものではありません。

今、私たちが戦っているのは「見える人々」なのではありません。その背後で働く「もろもろの悪霊」です。

そのことは「終わりの日」にも変わりません。

主は「空中の権威を持つ支配者」を裁かれます。不従順な人々の中で働く霊を裁かれます。

竜も獣も偽預言者も同じように裁かれます。一時だけ、別の場所に囚われますが、最終的には永遠に同じ場所にいることになります。

黙示録20:10
彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も世々限りなく苦しみを受ける。

覚えてください。

私たちは「霊の戦い」に参戦しているのです。

見えない敵は得体が知れず、何やら不気味に感じるかもしれません。

どうやって戦えばいいのか分からず恐ろしく思うかもしれません。

けれど、怯えてはなりません。おののいてはなりません。

私たちが黙示録を学ぶのは「敵の最後」を知るためです。

私たちの主イエスの大勝利を確信するためです。

黙示録12:11
兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。

私たちの子羊イエスは勝利されました。

私たちは「子羊の血」の勝利を宣言します。

どうか決して忘れないでください。

あなたは「勝利を得るため」に戦うのではありません。

すでに「勝利を得た者」として立ち向かうのです。

大声で「勝利した」と宣言しなさい。

「私は子羊の血によって打ち勝った」と言いなさい。

もろもろの悪霊に立ち向かって宣言し命じなさい。

「私は、子羊イエスの血によって贖われた。罪赦された。おまえたちは、私に手を出すことはできない。今すぐ立ち去れ」と。

敵の偽りを信じてはなりません。敵は、あなたを敗北者のように扱うでしょう。あなたが無価値であるかのように、失敗者であるかのように扱うでしょう。

黙示録を読みなさい。敵の最後を確認しなさい。主イエスの勝利を確信しなさい。そして、子羊の血を証するのです。証しするとは「告白」すること、すなわち「同意」することです。

主イエスが勝利を得られたことに同意しなさい。

そして、子羊の血によって「私は勝利者だ」と宣言しなさい。

神の武具をしっかり身に着けて、勝利者として最後まで歩み続けましょう。

事は成就した

さて、もう一度、黙示録16章17節を読みましょう。

黙示録16:17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。

第七の御使いが空中に鉢の中身をそそいだとき、大きな声が聞こえたとヨハネは言います。

それは「神殿の中から、御座から出て」と記されています。これは、なんだか日本語としては不自然ですが、原語そのままという感じです。

しかし、これまた難解ですね(笑)

ある人は「二度見みたいなものだ」と言います。

「神殿から大声が、いや違う、御座からだ」というニュアンスでしょうか。

また、ある神学者は「神殿の奥(至聖所)にある神の御座から直接響く声」のように表現しています。

いずれにせよ、これが「主なる神の御声」だということは確かでしょう。

主なる神が宣言されたのです。しかも「大きな声」で。

主の大声は「全地に響き渡る」でしょう。ハルマゲドンに集っている「世界の王たち」に聞こえるのかは分かりませんが、霊の世界を含む全世界に、主の宣言が響き渡るのだろうと私は信じています。

「事は成就した」

この宣言を主イエスの十字架でのおことばと比べてみましょう。

ヨハネ19:30
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

この「完了した」という原語はとても有名ですね。

これは、ご存知の通り「Τετέλεσται(テテレスタイ)」といいます。

「支払いを完了した」という意味です。

イエス様は、十字架で私たちのための「贖いの代価」を支払ってくださいました。私たちは「代価を払って買い取られた」のです。支払いは、すでに「完了」しています。

イエス様は「贖いは完了した」「すべて達成した」と言われたのです。

では、黙示録16:17の「事は成就した」とはどういう意味でしょうか。

主なる神は、このとき「Γέγονεν(ゲゴネン)」と一言だけ叫ばれました。

これは直訳すると「起こった」です。

ヨハネは黙示録をギリシャ語で記していますからここは「ゲゴネン」ですが、ヘブル語だと「ハーヤー(הָיָה)」です。これは「光があった」の「あった」の部分に使われています。

つまり、主は「事は起こった」「成った」「できた」と叫ばれたということです。

主は、世界の基が据えられる前から計画を持っておられました。十字架はその頂点と言えるかもしれません。しかし、それは「贖いの完了」ではありますが「計画の完成」ではありませんでした。

十字架、復活、ペンテコステと続く、あの数カ月は世界の歴史の頂点です。全世界の全時間が「あの数カ月」に注目します。

私たちは、主の紡がれた歴史を振り返り、その素晴らしさを褒めたたえます。旧約の預言者たちが語って来たこと、アブラハムやダビデの歩みのすべてが「あの数カ月」につながっていることを思うと感動に震えますね。

しかし、それは「計画の終わり」を意味しません。それはまだ「完成」ではありません。

「その先」があったのです。私たちは「その先」の時代に生かされています。私たちは「恵みの時代」に生かされています。「今は、恵みの時、今は、救いの日」です。

しかし、それも終わる時が来ます。私たちは、その「終わり」を学んでいます。

Γέγονεν(ゲゴネン)」つまり「事は成就した」と、主なる神は大きな声で言われました。

御座から「一言」だけ宣言されたのです。

創世記のはじめ「光よ、あれ」と言われたときのように、一言「成った」と言われたのです。

この日、とうとうすべてが終わります。主の「定められたさばき」のすべてが「起こった」のです。それは、地のすべての悪がさばかれたことを意味します。

黙示録16:18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。

世界は、かなり大きな地震を経験してきたと私は思います。

そうですよね。日本は大きな地震を何度も経験しています。私は、今でも、約30年前に経験した地震を覚えています。

しかし、この地球最後の地震は、いまだかつてだれも経験したことのないほどの「大きな地震」なのです。

黙示録16:20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。

この地震は「全世界」に影響を及ぼします。「どこどこ地域で地震が起こりました」というようなものではありません。大きな変動が起こります。すなわち、世界地図のとおりの配置ではなくなるということです。

まあ、このあたりのことは、次回にもう一度読みましょう。

主が宣言されたのです。

この地には「神の憤り」がすべて注ぎ尽くされました。

それさえも「終わり」ではないのです

この地は確かに「終わり」ます。主のさばきは「起こった」のです。

しかし、それは「すべての滅び」「完全な滅亡」を意味しません。

主はもう一度、「Γέγονεν(ゲゴネン)」と宣言されます。

黙示録21:6
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。

新しい天と新しい地を使徒ヨハネは見ました。主は「すべてを新しくする」と言われます。

そして、再び、宣言されるのです。

「事は成就した(Γέγοναν:ゲゴナン)」

厳密に言うと、黙示録16:17は「Γέγονεν(ゲゴネン)」で、単数形と複数形の違いはありますが同じ言葉です。

愛する兄弟姉妹。

主が「事は成就した」と二回、宣言されたことを感謝しましょう。

主のご計画はことごとく成ります。主はこの地を裁かれます。悪は滅びます。この地は消え去ります。

けれど、新たに「成就する事」があります。複数形なのは、多くの「事(約束)」が「成就」するからでしょう。私たちは、新天新地で、主の素晴らしい約束の数々が「起こった」ことを必ず見ます。

主は「新天新地」においても「宣言」から始められます。すべては「ことば」によって創造されるのです。新しい事も「成就した」のです。

覚えてください。

「終わり」は「始まり」なのです。

私たちは「終わりの時代に生きている」と言われます。私たちは「終わりに向かっている」などとも言われます。もちろん、実際にそうなのです。

しかし、私たちは「その先」があることを覚えていなければなりません。

私たちは「終わり」に向かっています。しかし「その先」を見つめるならば「始まり」に向かっているとも言えるでしょう。

暗い時代を歩んでいても、私たちは闇の中にいるわけではありません。世界は暗闇におおわれますが、私たちは「光の中」を歩んでいます。

私たちは、今、光の中を歩んでいます。そして、光に向かって歩んでいます。私たちは「光から光へ」と進むのです。そして、この世の終わりの先にある「新天新地」にたどり着きます。

これは余談ですが…

私は「新天新地」が「ゴール」ではないと思っています。「成就した事」の先に、まだまだ何かあるのだろうと思うのです。永遠に「終わり」は「始まり」なのではないかと思うのです。

愛する兄弟姉妹。

私たちの創造主は「無から有」を常に創造することがお出来になるのです。この方には、限界はありません。

ですから、私たちは「その先」を見ましょう。

あなたは「もう終わりだ」と思っているでしょうか?

「もうだめだ」「もう無理だ」「もう限界だ」と思うでしょうか?

確かに、あなたは「終わり」なのかもしれません。もう「無理」なのかもしれません。

しかし、たとえ「すべてが消えてしまった」ように感じたとしても、あなたには「創造主」がおられるではありませんか。

十字架のイエス様を見て、墓に葬られた愛しい方を見て、弟子たちはみな「もう終わりだ」と思ったのです。

しかし、それは「新たな始まり」でした。

ハルマゲドンの後の地上は「もう無理」だと誰もがあきらめてしまうような状態のはずです。しかし、地上は、後「1000年」は保たれます。「どうやって?」とだれもが思うでしょう。

しかし、いつでも「どうやって?」の答えは「主にあって」なのです。

Ⅰコリント2:9
しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりです。

主は常に「私たちの願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて」働かれます。私たちはみな「考えたこともなかった」「想像したこともなかった」と言うようになります。

主ともに歩みましょう。光の中を生きましょう。

朝ごとに新しい方は、あなたを「日々新しく」してくださいます。

主に信頼して歩めばよいのです。

そうすれば、あなたも「終わり」は常に「始まり」なのだということを経験するでしょう。

シャロームを祈ります。