2026.6.20 岩に建てるシリーズ「聖霊の学び」を追加

No.625 主がよみがえられたので その①

走り抜く

Ⅰコリント15:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

イエス様がよみがえられたので

パウロは、私たちの労苦は「主にあって無駄でない」と言っています。

「無駄」とは「空っぽ」とか「中身がない」「空しい」などという意味です。

Ⅰコリント15:14
そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

ここでパウロが言う「空しい」という言葉は、原語では(形は違いますが)「無駄」という語と同じです。

もし、イエス様がよみがえらなかったならば「すべてが空しい」とパウロは言います。

もし、復活がなかったならば、私たちの労苦は「空しい」のです。どんなに上手に生きても「無駄」です。何を建て上げても「空しい」のです。

しかし、私たちは知っています。

イエス様は、よみがえられました。

確かに十字架で死なれました。確かに墓に葬られました。しかし、よみがえられたのです。

死は「終わり」ではありませんでした。「墓」は到着点ではありませんでした。

もし、今、あなたが「空しさ」を感じているのなら…

すべてが「無駄だった」と失望してるのなら…

どうか思い出してください。

イエス様がよみがえられた後、墓が「空っぽ」であったことを。

マグダラのマリアは「空っぽ」の墓を見て泣き続けました。失ったものの大きさに絶望を感じていました。

しかし、彼女はすぐに知ります。「失ったのは得るためであった」ことを。そして、もはや「二度と失うことはないのだ」ということを。

あなたの「空っぽ」は「よみがえりの主」にあって「通過点」となります。

覚えてください。

あなたの労苦は「主にあって」のみ「無駄」ではなくなります。

逆に言えば「主にありさえすれば」あなたは「空っぽ」になることはないのです。

「主のわざに励みなさい」とは、直訳すると「主のわざに満ちあふれなさい」です。

失ったものを見つめるのはやめなさい。

「自分の手のわざ」に執着するのもやめなさい。

あなたは「主のわざに満ちあふれる」ことを求めればよいのです。

よみがえられたイエス様を見つめなさい。

そうすれば、今、あなたが「空っぽ」だと感じているそのことは「通過点」にすぎないことが分かるでしょう。

イエス様がよみがえられたので、私たちの労苦が「空っぽ」で終わることは決してないのです。

よみがえられたイエス様をいつも思います
主にあって私の労苦は無駄になりません
私は主のわざに満ち足ります