ヨハネ11:32
マリアは、イエスがおられるところに来た。そして、イエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
主は、マリアの前におられます
マリアもマルタも、イエス様は必ず来てくださると信じていたでしょう。
しかし、イエス様はすぐに来てくださいませんでした。
それでも、きっと来てくださるとマリアは信じていたはずです。けれど、イエス様はとうとう間に合わなかったのです。
主は、ラザロが葬られて「四日後」に来られました。
「もしここにいてくださったなら」とは「なぜ、ここにいてくださらなかったのですか」ということです。
「なぜ」主は、最も必要な時に「ここにいてくださらなかった」のでしょう。
「なぜ」すべての希望が失われる前に来てくださらなかったのでしょう。
すべては「もう遅い」とマリアは思っているのです。
確かに、それは「遅れている」ように見えます。
いえ、すでに「終わってしまった」とあなたは感じているかもしれませんね。
物事が「どんどん悪くなる」ように見えるとき、私たちは「主は、どこにおられるのか」と思います。
しかし、主は「今ここに」おられます。そして、絶えず「ここに」おられたのです。
「すべてが終わった」と絶望しているマリアの目の前に、今、イエス様はおられます。
そして、「なぜ、どうして」と嘆いているあなたの目の前にもおられます。
あなたは何に「絶望」したのでしょう?
あなたの「希望」は、すべて消えてしまったのでしょうか?
「信じていたこと」は実現しなかったのでしょうか?
イエス様は、あなたの思ったとおりの「時」に事を行なってくださらなかったのでしょうか?
私にも、あなたの気持ちはよく分かります。
しかし、どうか覚えてください。
「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と叫びたくなるようなとき…
イエス様は、あなたに言われます。
「わたしは、ここにいる」と。
マリアが、主の足もとにひれ伏したように、あなたもひれ伏しなさい。泣きながらすがりつきなさい。
「もう終わりだ」と思っても…
「すべてが失敗だった」と感じても…
「もう間に合わない、取り返しがつかない」と叫びたくなるときも…
主の足もとにひれ伏すのです。
あなたにも「ここにいるよ」という御声が聞こえるでしょう。
イエス様は、あなたに「悲しみ」「苦しみ」をもたらす出来事に対して「憤り」を感じてくださいます。マリアの悲しみに「憤って」くださったように。
「遅延」は「愛されていない証拠」ではありません。
「死」は「絶望」ではありません。
「見える今」は「すべて」ではないのです。
その日、マリアの絶望は「歓喜」に変わりました。イエス様によって「不可能は可能」となりました。
ラザロは墓から出てきました。そして、神の栄光が現わされたのです。
主は「一日」ですべてを変えることがお出来になります。
私は、その「一日」を心から待ち望みたいのです。
イエス様、ここにいてくださることを感謝します
主よ、あなたの御前に、ただひれ伏します
主の栄光を現わしてください

