2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録12章6節~9節】全世界を惑わす者が地に落とされます

再臨を待つ

黙示録12:9
こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

天に戦いが起こって…

前回は、黙示録12章5節までを学びました。

黙示録12:5
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に上げられた。

男の子を産んだ女とは「イスラエル」のこと、そして御座に上げられた男の子は「イエス・キリスト」のことであると学びました。

サタンは、男の子を食い尽くそうと狙っていましたが、それは成りませんでした。

黙示録12:6
女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと神によって備えられた場所があった。

この「荒野のへの逃亡1260日」と「養われる場所」については、12章13節以降で学びます。ですから、今は触れずに、先に進みたいと思います。(つまり実質、今回の学びは12章7節からということです)

黙示録12:7~8
さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことはできず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

使徒ヨハネは「天の戦い」を見ました。

この戦いは、おそらく患難期に起こるものでしょう。(前半か後半かで意見が分かれるところです。個人的には、後半ではないかと思います)

預言者ダニエルは言いました。

ダニエル12:1
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。

大天使ミカエルが立ち上がるのは「かつてなかったほどの苦難の時」の前です。

このとき、天において「ミカエルとその御使いたち」と「竜とその使いたち」が戦いを繰り広げます。そして、もちろん「ミカエルとその御使いたち」が勝利するのです。

この戦いにおいて、竜とその使いたちは「完全に」天における居場所を失います。

さて、この「天」がどこまでを表すのかは難しいところですね。

少なくとも「第三の天」つまり、神の御座がある天からは確実に追放されたでしょう。

サタンは、堕落したとき「三分の一の御使い」を巻き添えにしました。その時点で、彼らには「神の御前に立つ資格」などないはずなのです。

しかし、ヨブ記を読みますと、サタンがある程度自由に「出入り」している様子が描かれています。

ヨブ1:6~7
ある日、神の子らがやって来て、主の目の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。主は、サタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。」

サタンは、さも当然のような顔をして、神様の御前に立っています。

ですから、ある時点までサタンは、あろうことか「第三の天」に出入りしていたと考えられます。

黙示録12:9
こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

使徒ヨハネは、サタンが「地に投げ落とされた」ことを強調しています。サタンたちは「地」に投げ落とされたのです。

もしかすると、これは「空中の支配者」であったサタンが、その支配権を失ったということかもしれません。つまり「第二の天」からも落とされたのではないかと思うのです。

聖書には「第二の天」などという言葉は記されていません。ただ「第三の天」があるのだから「第二の天」もあるだろうと思うわけです。

そして、その「第二の天」は、おそらく「空中」と呼ばれるところで、サタンはそこを拠点としていたのだろうと考えることができます。

「第三の天」と私たちが置かれてる「第一の天(つまり地)」との間に「第二の天」があると思われます。

ダニエルに「祈りの答え」を運んでいた御使いは、悪霊に妨害されます。「第三の天」とダニエルの間に「悪霊たちの活動する場所」があったことは明白です。

エペソ2:2
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

サタンは「空中の権威を持つ支配者」です。今は、まだそうなのです。しかし、大天使ミカエルが立ち上がるその日、サタンとその使いたちは「空中」に居場所を失くすのだろうと私は考えます。

私は「第三の天」で戦いが起こるとは思いません。戦いは、常に「第二の天(空中)」で起こっていると思います。

いつも言いますが、主なる神は、サタンと直接対決されることはありません。サタンは確かに大きな力を持つ恐ろしい敵です。しかし、それは私たちから見てということです。サタンが、いくら巨大な力を持っていて、とんでもなく賢かったとしても、全能なる神には絶対に勝つことはできません。勝敗は、戦う前から決まっています。

ですから、サタンと戦うのは、御使いのかしらミカエルなのです。そして、その戦いは「空中」で行われるでしょう。ミカエルは「空中戦」を制するわけです。その結果、サタンとその使いは「地に投げ落とされる」のでしょう。

正体は、全世界を惑わす者です

もう一度、黙示録12章9節を読みましょう。

黙示録12:9
こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

さて、ここには、悪魔とかサタンとか呼ばれる者の「呼び名」が記されています。

使徒ヨハネが見たのは「大きな竜」でした。そして、それは「古い蛇」でもあります。

「古い」と訳されている語は「原始の」とか「最初からの」と訳すこともできます。つまり創世記に登場する「あの蛇」のことです。

そして、それは「悪魔」と呼ばれています。「悪魔」とは、原語では「διάβολος(ディアボロス)」で、それは「中傷する者」という意味です。

また、それは「サタン」と呼ばれます。「サタン」とは、ギリシャ語では「Σατανάς(サタナス)」です。これはヘブライ語からの借用語で「敵・敵対する者」という意味です。

このように、悪魔とかサタンとか呼ばれる者は、様々な形態で現れます。サタンは「変装」します。

私たちは、悪魔とかサタンと聞くと、何か「不気味な存在」を思い浮かべてしまいます。

しかし、エバが簡単に心を開き、会話に応じたことを思い出してください。サタンは「不気味な姿」で近づいてくることはないでしょう。

黙示録は、サタンの正体を暴いています。ですから、サタンは黙示録を読むことから、私たち聖徒を遠ざけるのです。黙示録は「何か得体の知れない難解な書」だと思い込まされているのです。

サタンの正体は「全世界を惑わす者」です。

ヨハネ8:44b
悪魔は初めから人殺しで、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないのです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

イエス様は、悪魔の本性は「偽り」だと言われました。彼のうちには「真理」がないのです。

「物と事」に惑わされてはなりません。「見えるもの」に惑わされてはなりません。

サタンは、あなたに有効だと思えば「大きな竜」として現れるでしょう。また「賢い蛇」としてささやくでしょう。あなたが欲するならば「美しい女性」にも「素敵な男性」にも変装するでしょう。害のない姿で近づきます。「耳に心地よいことば」を語りかけることもできるのです。

その正体が「全世界を惑わす者」であることを覚えてください。

いのちの木を選ぶことです

大患難のとき、この「全世界を惑わす者」は「地に投げ落とされ」ます。しかし、それは、今「惑わす者」が私たちの周囲で働いていないという意味ではありません。

サタンは、今も「空中の権威を持つ支配者」として「惑わす」獲物を求めて歩き回っています。

Ⅰテモテ4:1
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

私たちは「惑わす霊」と「悪霊の教え」に注意していなければなりません。

サタンが、できるだけ多くの聖徒を「信仰から離れさせようと」しているからです。

ヤコブ3:15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。

「肉的で悪魔的な知恵」というものがあるのです。

エバを誘惑した蛇の知恵こそ「肉的で悪魔的なもの」です。

それは、明らかに「魔術」「偶像礼拝」のような形で現れはしません。もし、それが明らかに「呪術的なもの」であったり「偶像を拝め」という誘いであったなら、ほとんどの聖徒は避けることでしょう。

しかし、蛇はエバを「賢くなれる」「神のようになれる」と言って誘惑したのです。

創世記3:6
そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

覚えてください。

それは「好ましく見えた」のです。それは「良い感じに見えた」のです。

ですから、私たちは「見えるところ」で生きてはなりません。「見えるもの」をすべて信じてはなりません。「見た感じ良さそう」なものを受け入れてはなりません。

Ⅰヨハネ2:16
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

あなたが「惑わされたくない」と願うなら決心することです。

「私は、御父から出るものだけを受け入れます」と宣言することです。

言い換えるなら「いのちの木を選ぶ」と決めることです。

ここで注意することがあります。

どうか間違わないでください。私は「いのちの木を選ぶこと」と言っているのです。

ある人は「では、善悪の知識の実を選ばなければいいのね」と言います。

そうではありません。もし、あなたが「善悪の知識の実を選ばない」と決心するならば、それはすでに敵の罠にはまっているのです。

「善悪の知識の実を選ばないこと」と「いのちの木を選ぶこと」とは、同じことではありません。

「いや、結果は同じでしょう」と言う人がいるかもしれませんね。しかし、その結果は「全く違う」ことになります。

何が「肉の欲」で、何が「目の欲」なのでしょう。「暮らし向きの自慢」とは、どのようなことを指しているのでしょう。

私たちの周囲には「好ましく見えるもの」であふれています。あなたは、それらのうちの「どれを避けて、どれを受け入れる」のですか?

それを判断するためには、あなたは「世の中を注意深く見る」ことになるでしょう。つまり、主なる神よりも「世の中」の方をずっと長く見続けるということです。

もし、あなたが「世の中を見続ける」ならば、必ずいつか「惑わされ」ます。

惑わされないために必要なことは「何を選ばないか」を決めるのではなく「一つのことを選ぶ」と決めることです。

覚えてください。

「善悪の知識の実を選ばない」と決心してはなりません。

そうではなく「いのちの木を選び続ける」と決心するのです。

惑わされない生き方をしましょう

それは言い換えるなら「主イエスを見続ける」もしくは「十字架を選ぶ」と決心することです。

もう少し簡単に言えば「もはや、私ではなくキリストが生きておられる」と認めて生きるということです。

ガラテヤ2:20
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子を信じる信仰によるのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」とは、聖徒がいずれ達するであろう「聖人の領域」というものではありません。

これは、すべての聖徒が「生きるべき標準の姿」なのです。

パウロはここで、何か特別に高度なキリスト教を述べようとしているのではなく、むしろ、神がキリスト者に求めておられる基準を啓示していると信じます。すなわちそれは「生きているのはもはや私ではなく、キリストがご自身の命を私のうちに生かしめている」という言葉に要約できます。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社

私は、サタンの最も大きな惑わしは「それは特別な人だけに与えられている生き方で、普通の人には無理なのだ」と信じ込ませていることだと思います。

聖書に記されていることは「特別な人」だけのものではありません。聖歌で歌うように「エリヤもわれと同じ人なり」なのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と認めて生きることは、特別な人だけが達し得る「超人的なこと」などではありません。

あなたも私も、そのように「認めて」生きることができるのです。むしろ「そうでなくてはならない」のです。

惑わされないために必要なことは、聖書の「真理」に生きることです。

サタンのうちには「真理」がありません。彼のうちには「偽り」しかないのです。サタンは「正しいこと」を言うでしょうが、それは「真理」ではないのです。

しかし、私たちは「真理」を持つことができます。「真理」に生きることができるのです。

ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

私たちのうちには「真理そのもの」である方が生きておられます。

イエス様を見ましょう。そして、イエス様が「私のうちに生きておられる」ことを認めましょう。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言しつつ歩みましょう。

それこそ「自分を捨て自分の十字架を負って従う」と言うことです。

そして、それこそ「惑わされない唯一の生き方」なのです。

シャロームを祈ります。