No.438 私は「重荷」を手離します

手離せ

詩篇55:22
あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。

私は自分を支えることはできません

「あなたの重荷」とは、直訳すると「あなたに与えられたもの」です。

別訳では「あなたの将来」です。

つまり、私たちは「自分に与えられた将来」をすべて、主にゆだねることができるのです。

いえ、むしろ「ゆだねよ」と言われているのですから「ゆだねるべき」なのです。

私たちが「ゆだねる」なら、主は私たちを「支えて」くださいます。

「ゆだねる」とは、言い換えるならば「手離す」ということです。または「自分で支えない」ことと言えるかもしれません。

私たちは「将来」を手離しましょう。それは「自分で支える」べきものではないのです。

それは「一時間後の将来」でも「一カ月後の将来」でも「十年後の将来」でも同じです。

それはまた「自分自身の将来」に対してだけではなく「周囲の人の将来」に対してもです。

私たちは「自分の重荷」をゆだねると決断することができます。また、誰かの「決断」を助けることができるかもしれません。

私たちは「破れを繕い修復する」ことに用いられるかもしれません。

しかし、だれも決して「支え」となることはできないのです。

詩篇55:22
あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。

「あなたの重荷を主にゆだねよ」とダビデは言います。これはダビデの「マスキール」つまり「教訓」です。

ダビデは、苦難の人生の中で「ゆだねる」ことを学んだのです。

あなたの「重荷」は何でしょう。

「もうダメだ」「もう無理だ」「背負うのに疲れた」と感じているでしょうか。

「無理なのは理解している。でも、私がやらねば誰がやる」と思っているでしょうか。そんなアニメの主人公のような「責任感」は捨てなさい。

「あなた」ができないなら「主が」なさいます。

どうか「主イエスのもと」に行くことを覚えてください。

マタイ11:28
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

なぜ、あてもなく彷徨う人のように「自分の重荷」を背負って歩き回っているのでしょう。

時には「自分の重荷」だけではなく「他の人の重荷」まで背負って…

私たちは「イエス様のもとに行く」ことを学ばなければなりません。つまり「重荷のゆだね方」「将来の手離し方」を学ぶ必要があるのです。

「あなたの重荷」「あなたの将来」を主にゆだねなさい。

私たちは決して「主の代わり」にはなれません。私たちは「支え」ではないのです。

「あなたの重荷」「あなたの将来」を主にゆだねなさい。

主は決して、あなたが「揺るがされるようにはなさらない」と約束しておられます。

主よ、私の重荷をゆだねます
主よ、あなたこそ支えです。
私は、決して揺るがされることはありません。