No.351 ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます

坂道

Ⅰペテロ5:6
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

上るとは下ることなのです

創世記37:9
再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。

ヨセフの話を聞いた兄さんたちは怒りました。ヨセフを偏愛していた父ヤコブでさえも腹を立てました。まあ、さもあらんとは思います。

この「夢」を見て、その話をしたせいでヨセフの人生は下降していったのです。

「夢」なんて見ない方がいいのでしょうか。しかし、この「夢」は主なる神が与えてくださったものです。

それでも「夢」なんか与えられなければよかったなと、ヨセフは思ったかもしれません。

ヨセフの人生は「真っ逆さま」に下って行くように見えました。ヨセフの見た夢は、永遠に成就しないように思えました。

父や兄たちに拝まれるなどという身分とは、真逆の立場に置かれています。

「夢見る者がやって来る」と兄たちは言いました。そして、ヨセフの身ぐるみをはがし穴に投げ入れ、あろうことかミディヤン人の商人に売り飛ばしてしまいました。

ヨセフは、エジプトに奴隷として売られます。そして、そこでも苦難が待っていました。

「奴隷」が一番低い場所かと思っていましたが、まだどん底ではなかったことをヨセフは知ります。

無実の罪で「囚人」とされるのです。ヨセフは正しく生きていました。悪いのは誘惑してきたポティファルの妻です。ヨセフの言い分は聞き入れられず、彼は監獄に入れられます。そこで「囚人に仕えるしもべ」となるのです。

下に下に下に…

どこまでも下って行きます。

しかし、これは「主の御手の中」の出来事でした。

創世記39:21
しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

あなたの人生が「下り坂」に見えたとしても、それは「見捨てられた」と言う証拠ではありません。

これ以上ないほどの「下り坂」、そのどん底にあっても「主はヨセフとともにおられ」ました。

自分の見た「夢」は、ただの勘違いなのではないだろうかと思うことがあります。

自分の人生は「下って」いると思うこともあります。

目指すところとは「反対の方向」にいるように思えることもあります。

しかし「上に向かう道は、常に下にある」のです。

もし、あなたが「自分は上にいる」と感じているのなら、おそらく「夢」は成就しないでしょう。

しかし、もし、あなたが「私はどん底にいる」と感じているならば、主が「ちょうど良い時に高く上げて」くださることを期待してください。それは、必ず起こります。

ヨセフは、一日にして「高く上げられ」ました。監獄の奴隷が「エジプトを治める支配者」とされたのです。

ヨセフに与えられた「夢」は成就しました。兄たちがヨセフにひれ伏す日が来ました。

しかし、その夢が成就した日、ヨセフは「夢の成就」を喜びはしませんでした。

創世記50:20
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

夢の成就は「たいしたことではなかった」とヨセフは知ったのです。主は「良いことのための計らい」をしてくださったのです。

主は「夢の成就」以上のことを成されました。主は「ヤコブ一族」だけではなく、それ以上の多くの人々を飢えから救われたのです。

主の「計らい」は、私たちの考えを「はるかに超える」のです。

下に下にと降りていくとき、私たちは「主の御手」を心の底から感じるようになります。

そうして、高く上げられたならば、おそらく私は「夢の成就」を喜びはしないでしょう。「私の野心」は消えてなくなり、ただ「神の栄光」だけを誉めたたえるようになるでしょう。

下らなければ、上れません。

私たちは、ただ「主の御手の下に」へりくだって歩めばよいのです。

主の御手の下にへりくだります
主に信頼します
どんな「底」にも、ともにいてくださることを感謝します