黙示録4:10
二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
冠を投げ出して言います
天では「礼拝」が常にささげられています。
二十四人の長老たちは、贖われた人々の代表ではないかと思います。
主イエスの血潮で贖われた者は、みな、礼拝をささげるのです。
私たちは、礼拝をささげるとき「御前にひれ伏し」ます。
それは「すべて主のものです」という表明です。
そして、ひれ伏したなら「冠を投げ出す」のです。
二十四人の長老の冠は「主権者の冠」ではありません。
彼らは「競技者が授かる勝利の冠」をかぶっています。それは、彼らの信仰の証とも言えます。
しかし、それさえも「御座の前」では投げ出さずにはいられないのです。
さて、冠の目的は何でしょう。それは、それをかぶっている者に人々の注意を引くためです。それは、それをかぶっている人を高くあげます。冠を主の足下に投げ出すことによって、キリストの真の礼拝者は「私はあなただけが高く上げられ、あなただけに栄光が記されることを望んでいます。」と言っているのです。
祝されたデボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社
「冠」とは、それをかぶっている者を「高め」ます。「冠」は、誰かの注意を引くものです。「冠」は、自分の栄誉を知らしめるものです。
二十四人の長老は、自分から「栄誉」を求めたわけではないでしょう。主が、彼らに冠を授けてくださったのです。
けれど、彼らはそれを「投げ出し」ました。
それは「主よ、あなただけが栄光と誉れと力を受けるのにふさわしい方」であるという表明です。
主こそ「ふさわしい方」です。
かつて「茨の冠」をかぶってくださった方こそ「多くの冠」を受けるのにふさわしい方です。
私たちは、主の御前にひれ伏しましょう。
そして、心から「栄光は、主だけのものです」と言いましょう。
ともすれば、私は「自分の野心」のために生きてしまうようです。そんなつもりはなくても「自分が何をするべきか」に集中してしまうのです。
それは「主のため」であるように見えます。自分でもそう思っているのです。しかし、実際の所、それは「自分のため」であることが往々にして起きるのです。
私は、キリストのために、キリストの栄光のために生かされてるのだということを、日々、宣言しながら生きたいものです。
主の恵みにより、私たちは「様々な特権」を与えられます。「冠」も与えられるでしょう。
しかし、御座の前に出て、麗しい方を見上げるならば…
自分の頭の「冠」を投げ出さずにはいられないでしょう。
「与えられたもの」より「与え主」の方が、もちろん慕わしいのです。
主の御前にひれ伏しましょう。
そして、御前にすべてを投げ出し告白しましょう。
「主よ、すべての根源、すべての与え主よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるのにふさわしい方です」
私は御前にひれ伏します
主よ、あなたこそふさわしい方です
あなたは、私のすべてです