詩篇16:2
私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
それは矛盾しているのです
ある若い姉妹が、グレアム・スクロギー牧師に相談しました。
「主は、私を宣教師として召されているように思います。しかし、私は従いたくないのです」
彼女は、ピアニストとして活躍していました。もし、宣教師となって海外に遣わされたならば、今のように頻繁に演奏会に出ることはできなくなります。
また、彼女は「自分は中国に召されている」と感じていました。しかし、彼女は「中国」だけには行きたくなかったのです。
スクロギー師は、静かに「使徒の働き10章14節」を開きました。
スクロギー師は、その姉妹に「このペテロの言葉には矛盾があります」と言いました。
「主」と呼びかけているのですから、ペテロは「しもべ」です。「しもべ」は「主人」に言葉を返すことはありません。
「主よ」と呼びかけたならば、その後に続ける言葉は「はい」でなければなりません。「主よ」と呼びかけながら「できません」「やりません」とは言えないのです。
スクロギー博士は、若い婦人に言いました。「さあ、私はあなたに『できません』ということばを消して『主よ』ということばを残すか、それとも『主よ』を消して『できません』を残すか、どちらかにしていただきたいのです。」
神に用いられる人 オズワルト・J・スミス著 いのちのことば社
私たちも同じ決断をしなければなりません。
「主よ」と呼びかけるのならば、私はしもべです。
私たちは時々、自分の思いを遂げるために「主」を求めることがあります。しかし、本当に自分を「しもべ」であると考えるならば、成し遂げるべきは「私の願い」ではなく「主の御心」なのです。
のちほど、博士は帰って来ました。彼女の肩越しに、博士は涙で濡れたページを見ました。しかし、そこには「できません」という言葉が消してあったのです。彼女は、喜びの光を目に浮かべながら教会をあとにし、幾度も「主よ、主よ」と繰り返しながら家路につきました。
神に用いられる人 オズワルト・J・スミス著 いのちのことば社
「できません」が消えたなら「主」が残るのです。
私はどちらを消すでしょう。あなたは、どちらを残しますか。
私たちは、日々、決断せねばなりません。一瞬一瞬、選ばなければなりません。
「主よ」と「できません」を共存させることはできません。私たちは「どちらか」を選んで歩んでいるのです。
願わくば、私たちが、日々、一瞬一瞬「あなたこそ私の主」と告白しながら歩むことができますように。
あなたこそ私の主です
私はいつもあなたを目の前にして歩みます
主よ、従います