【Ⅰコリント1:18~19】
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
私の愛読書の話です
ハドソン・テーラーは、私が天国で会いたい人の一人です。
私の愛読書の一冊「ハドソン・テーラー、信仰の生涯を語る」から少し引用します。文中の「私」というのがハドソン・テーラーのことです。
私は、神が中国伝道に私の生涯をささげるように召してくださったことを語った。
ハドソン・テーラー信仰の生涯を語る いのちのことば社 P16
「では、どのようにして中国に渡るつもりか」と彼は尋ねた。
そこで私は、「十二使徒や 七十人の弟子たちがユダヤでしたように、財布も袋ももたず、私を召してくださった主が、すべての必要を満たしてくださると信じて行くべきであると思う」と答えた。
すると、牧師はやさしく私の肩に手をおいて「ああ、君ももう少し年をとれば賢くなるだろう。そんな考えはキリストが生きておられた当時ならともかく、今は通用しないよ」と言った。
私はそれ以来、年もとったが賢くもならない。
「年もとったが賢くもならない」
何回も読んでいますが、読むたびに笑ってしまいます。
なんと素敵なセリフでしょう。
すがすがしさを感じます。
救われた当初、「私もこうなりたい」と思いました。
そして今は、「私はこうであろうか」と省みます。
人の知恵や賢さでは、わからないことがあるのです。
パウロは、アテネでイエス様の復活について語り、そしてあざ笑われました。
彼らには、理解できない愚かなことに思えたからです。
しかし私たちは、イエス様が十字架に架けられよみがえられたことを信じます。
滅びる者たちにとって愚かであっても、十字架のことばは私たちにとっては神の力です。
十字架のことばを信じる私たちは、主の言われるすべてのことを信じます。
なぜ自分の知恵や賢さで世の中を渡ろうとするのでしょう。
「もっと賢く生きないと」という声に引きずられてしまうのでしょう。
私たちは信仰によって歩みます。
私たちの知恵はキリストです。
私たちの力もキリストです。