【創世記3:9】
神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
主はあなたを呼ばれます
ある伝道者は、主からの語りかけに驚きすぎて階段から落ちてしまったそうです。主からの語りかけだと気が付いた彼は叫びました。
「主よ、あなたのお望みのものは何でも」と。
すると、主はこう答えられたそうです。
「何でもではない。わたしが望んでいるのはあなた自身だ」
主は、私たちの「何か」をお望みではないのです。
あなたの「献金」をあてにはしておられません。主は、この世界のすべてをお持ちです。あなたの「奉仕」を必要としてもおられません。主は、すべてご自身で行うことがお出来になります。
あなたの美しい賛美も、器用な指先も、雄弁に語ることも、主は「必要」とはされないのです。
主は、誰にも仕えてもらう必要などないのです。むしろ、私たちにすべてを与えてくださっている方なのです。
主は、私たちがいなくても「困る」ことはありませんし、その存在を脅かされることも決してないのです。
しかし、主は、人を求めてくださいます。
人が罪を犯して失われてしまったとき、主ご自身がアダムを探してくださいました。
主が呼びかけられたのです。「あなたはどこにいるのか」と。アダムは神にとって「必要」ではないけれど「愛する」者でした。
主は、あなたの「何か」を求めてはおられません。主は「あなた自身」を望まれます。
主に会う時間を「奉仕」という名目で減らしてはなりません。「献金」はささげるべきですが、それは「真心からの礼拝」の代わりにはなりません。
ときには「賛美」でさえも、主との「交わり」を妨げます。賛美は素晴らしいけれど、御声を聞くことの代わりにはなりません。主が語られる時には「静まる」ことが必要です。
「祈り」であっても「交わり」でないこともあります。祈ることは大切ですが、「神との関係を無視した祈り」をささげることもできるのです。つまり、主の御声を聞かず「自分のことだけを大声で叫び続ける祈り」です。
「あなたは、どこにいるのか」
主が呼びかけておられます。主のもとに行きましょう。主の御前にひざまずきましょう。
そして、アダムのようにではなくサムエルのように言いましょう。
主が求めておられるのは「聞く人」です。私たちは「交わり」を持つのです。主が求めておられるのは「あなた自身」です。あなたと親密な関係を持つことです。
今日、主の御前にひざまずき言いましょう。
「主よ、御前におります。私は聞いております。お語りください。私は、あなたのものです」と。
主よ、御前におります。
お語り下さい。
あなたの呼びかけに答えるものとしてください。