Ⅰコリント10:31
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
二重生活をやめたいと思います
何をするのも神の栄光を現すために行いなさいとパウロは言います。それは、どんなときでも、主との関係の中ですべてのことを行うということです。
本当にそのようなことが可能なのでしょうか?
本当にそのように生きた神のしもべがいることは事実です。
ジョン・ハイドは第一級の説教者でしたが、彼の力の出所は、神との交わりにありました。彼の祈りの生活は、神への絶対的な服従の一つの表れでした。こんな出来事を覚えています。私たちがともに祈祷室にいるとき、昼食のベルが鳴りました。私は彼が、「父よ、行ってもよろしいでしょうか」とささやくのを聞きました。しばらくして答えがあったのでしょう。「感謝します、父よ」と言って、彼はほほえみながら立ち上がり、昼食をとりに行きました。言うまでもなく、彼は主が食卓に共に座しておられることを覚えました。そして、ああ、なんと多くの飢えたたましいが彼の話によって元気づけられたことでしょう。
祈りのハイド フランシス・A・マッゴー著 いのちのことば社
私は、主に聞かなければ昼食をとってはならないと言いたいのではありません。ハイドの生活のすべてが、主との関係の中で行われていると言いたいのです。そして、昼食をとることすら、主の栄光が現れる場となり、「いのちのパン」に飢えた人たちを元気づける場となるのだと言いたいのです。
私たちは知らず知らずのうちに「霊的なこと」と「普通のこと」を分けてしまうことがあります。本当は、そんな区分はないのです。しかし、私たちは、きれいにクッキリと、それは見事に分けてしまうのです。
聖書を学んだり、祈ったり、伝道したりすることは霊的なことで、仕事をしたり、食事をしたり、散歩に行ったりすることは普通のことだと思うのです。
御言葉を教えたり、賛美を導いたりすることは霊的な奉仕で、掃除をしたり、給仕をしたりすることは特別な奉仕ではないと思ってしまうのです。
私たちが、主とともに行うすべてのことは「神の栄光が現される」可能性があることを覚えてください。
あなたが、どんな時でも「主とともに」喜びをもって歩むなら、そこに「栄光」が現されます。嫌々、不平不満をもって歩むなら、どんなに霊的に見える奉仕に携わっていたとしても、そこに栄光は現れません。
「何をするにも」です。
あなたが「普通」に行っていることを「主とともに」行うだけです。毎日、主とともに通勤し、主とともに散歩に行くだけです。主とともに買い物に行き、主とともに掃除をします。
「二重生活」をやめる決心をするだけです。どんなときも、どんな場所でも「主とともに」あることを覚えて生きると決めることです。
そうすれば、私たちは「神の栄光」を現わすことができるのです。
私は「主とともに」歩みます。
私は何をするにも栄光を現すことができます。
私は「二重生活」を捨てます。