申命記29:29
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現わされたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。
現わされたことに目を留めます
「隠されていることは神のもの」であると聖書は言います。
主は意図的に隠しておられるのです。主が隠しておられることを人が探り出すことは不可能です。
終末預言を学ぶことは非常に大切だと私は思っています。黙示録やダニエル書を学ぶことはとても楽しいです。
しかし、隠されていることを知ろうと執着してはなりません。その執着が「曲がった解釈」を生み出すのだと私は思います。
「イエス様の再臨はいつか?」という答えは、どれだけ学んだとしても「分からない」のです。
「神のもの」を荒らしまわるようなことはやめましょう。
聖書を学ぶときに大切なことは、まず「現わされたこと」を受け止めることです。主は、聖書の66巻に多くのことを「現わして」くださっています。
私は時々、聖書を前に途方に暮れることがあります。主が「現わして」くださったみことばがあまりにも多いからです。こんなにも多くのことを生きている間に学びきれるだろうかと思うのです。しばしば、学びの時間が足りないように感じて焦りを覚えるほどです。
「現わされたこと」に目を留めましょう。
確かに「隠されていること」は魅力的ですが、まずは「現わされたこと」をしっかりと学ぶことです。
惑わされてはなりません。
自分だけが「真理」を知っているかのように振る舞う人に従って行ってはなりません。「新しい教え」には注意することです。霊だからと言って、すべて受けれてはなりません。
「吟味します」と告げて怒るような人の教えなら、聞かなくても大丈夫です。
「いつ」とか「どんな時」とかを「知っている」という人を信じてはいけません。イエス様でさえ「知らない」ことを知っている人などいないのです。
「隠されていること」は「神のもの」です。「神のもの」にむやみに手を出してはなりません。現わしてくださるまで待つのです。「探り求めてみよ」と言われるまで待つのです。
「現わされたこと」をないがしろにしているならば、それ以上のことを教えてくださるとは思えません。
今「現わされていること」に目を留めましょう。それは永遠に私たちのものです。
そして「それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うため」に現わされたのです。主が「現わされたこと」に聞き従いましょう。
「現わされたこと」は「永遠に」私たちのものです。
私はみことばを愛します
現わされたみことばに聞き従います
主のみこころを行えますように