詩篇131:2
まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。
乳離れした子が 母親とともにいるように 乳離れした子のように 私のたましいは私とともにあります。
私のたましいを和らげます
「乳離れした子のように」とダビデは言いました。
「乳離れした子」とダビデが言うとき、少なくとも、母親にすがりついてはいない子をイメージしていたと思われます。つまり「乳離れした子」とは、母親の乳を必死で求めない子ということでしょう。
ダビデの「霊」は「たましい」を客観視しているようです。
ダビデの「たましい」は、必死でしがみつくこともなく、騒ぎ立てもせず、静まって、ダビデの「霊」とともにあるのです。ダビデのたましいは「乳離れした子」のように、ダビデの霊とともにあるのです。
ダビデのたましいは「何かを求めて騒ぎ立てる」ことをやめました。
私たちは「たましい」を和らげ、静めましょう。
「乳離れした子」が母親とともにいるとは、どのような状態でしょうか。
そこには、微笑ましさ、穏やかさ、喜び、楽しみ、温かさがあります。
私は、時折、自分に問いかけます。「私のたましいは、それらを持っているだろうか」と。
主は、おそらく、そのような人に語りかけてくださるのではないかと思うのです。
幼子サムエルは「乳離れ」したときから、主の家で暮らすことになりました。その可愛らしい子どもは、主の御目に微笑ましく映ったことでしょう。
幼子サムエルが、少年に成長するころ、主はその御声を聞かせてくださったのです。
私たちも「乳離れした」たましいを持ちましょう。
微笑ましく、穏やかで、喜びに満ち、楽しく、温かな「たましい」を持ちましょう。
主の御目にそのように映る人は幸いです。
主が私たちにも「乳以上のもの」を与えてくださいますように。「主の御声」を聞かせてくださいますように。
私たちは、主を待ち望みましょう。
私は、たましいを和らげ静めます
私は、ただ静まって、主を待ち望みます
主の御声を聞かせてください