【マタイ14:32~33】
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたの神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
ペテロは水の上を歩きました
水の上を歩く必要などなかったのです。大人しく舟に乗っていれば、イエス様が乗り込んでこられたか、そうでなくても、向こう岸でお会いできたのです。
しかし、ペテロは水の上を歩いて行きました。そして、怖くなって沈みかけたのです。
ペテロが沈んだのは、自分で言い出したにも関わらず「疑った」からです。
時々、私は思います。自分のしていることは「水の上を歩くようなことだな」と。
その必要はないのかもしれません。大人しく教会に通っていればいいのかもしれません。
けれど、私は「水の上を歩いて」でもイエス様のそばにいたいと思うのです。
舟に乗って向こう岸に向かうより、無謀だと思われても、それでも、イエス様と一緒に歩きたいのです。
主はペテロに「来なさい」と言われました。
「いや、危ないから舟にいなさい。信じ切れるならいいがね、おまえは沈んでしまうだろう」とは言われませんでした。
イエス様は、ペテロがご自分のそばに来ることを望まれたのです。
確かにペテロは沈みました。そして叫びました。「主よ、助けてください」
本当に愛すべきペテロです。
主は「すぐに」助けて下さいました。疑って沈みかけたペテロを「すぐに」助けてくださったのです。主はご自身の手を「すぐに」伸ばしてくださいました。主は、そうせずにはおられない方なのです。
そして「なぜ疑うのか」と言われましたが、おそらく怒ってはおられなかったでしょう。
イエス様とペテロは一緒に舟に向かいました。
この時、ペテロは、イエス様の手をしっかりと握っていたのでしょうか。
彼は沈むことなく、水の上を歩いて舟に乗り込んだのです。
ハレルヤ!
私は、この場面に心から感動します。主のあわれみに感謝します。主が、ペテロと一緒に舟に乗り込んでくださったことを感謝します。
そして、驚くべきことが起こります。
舟に残っていた弟子たちは、固唾を呑んで一部始終を見つめていたでしょう。
彼らは、恐る恐る水の上を歩くペテロを見ました。
そして、怖くなって叫び、沈みかけたペテロを見ました。
間髪入れずに手を伸ばし引き上げられたイエス様を見ました。
そして、二人で舟に乗り込んで来るのを見たのです。
彼らはペテロを笑いませんでした。
おそらくペテロを見てもいなかったでしょう。
彼らは、イエス様にひれ伏したのです。
これは驚くべきことです。
もし、あなたが、主に従っていて、自分ごときがこんなことを続けて何になると思っているなら、ペテロを見なさい。
もし、このままイエス様に従っていて、怖くなって失敗したらどうしようと思っているなら、ペテロを見なさい。
もし、あなたが、水の上を歩いてイエス様のもとに行きたいけれど躊躇しているのなら、ペテロを見なさい。
そして、何より「すぐに」手を伸ばし引き上げられた方を見なさい。イエス様がどんな方か見てください。
手を伸ばされたのは「愛」のゆえです。主の「あわれみ」は手を伸ばさずにはおられないほど大きいのです。
イエス様を求めて、イエス様のそばにいたくて歩いて来た者を、見捨てることができるような方ではないのです。
それだけではありません。
失敗したペテロを助けられたイエス様を見て、舟の中にいた弟子たちは「礼拝した」のです。イエス様にひれ伏したのです。
水の上を歩きませんか。イエス様のそばに行きたいと思いませんか。もし「来なさい」という声を聞いたなら行きましょう。
あなたは失敗を恐れる必要はありません。沈みかけたら叫べばいいのです。主は必ず助けてくださいます。
そして、あなたを助けてくださる方、主イエスを見た人々は、礼拝するでしょう。たとえ、あなたが沈みかけたとしても、助けてくださるイエス様を見て礼拝するでしょう。イエス様を「神の子だ」と認めてひれ伏すようになるでしょう。
あなたが水の上を歩きだせば、イエス様はあがめられます。
主よ、私はあなたのそばにいたいのです。
あなたとともに歩くものとしてください。
水の上を歩いてでもイエス様のもとへ向かいます。