No.239 失敗しても「聖徒」は祝福の器です

あくびの赤ちゃん

創世記20:7
今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。

アブラハムは、また失敗してしまいました

創世記20:2
アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。

私たちの信仰の父アブラハムは、再び同じ失敗を犯してしまいました。

エジプトでの出来事を、また繰り返したのです。サラを召し入れたアビメレクは、別に何も悪くはありません。

しかし、この箇所は驚くべき真理を啓示しています。

それは、主が「正しい世の人」を祝福するのに「失敗した聖徒」を用いられるということです。

アビメレクは夢の中に主が現れてくださったとき、自分のことを「正しい国民」と言いました。

そして、主もそれを否定されませんでした。「あなたが全き心でこれをしたことを知っている」と言われたのです。

しかし、主は続けて言われました。

創世記20:7a
今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。

どう考えても悪いのはアブラハムです。

しかし、主は「あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう」と言われたのです。

そして、アブラハムの祈りによって「いのちを得なさい」とも言われたのです。

私たちは、時々、恥ずかしい思いをするかもしれません。どう考えても、聖徒でない「あの人」の方が「品行方正」で「愛」があるように見えるときがあります。

他の人からの評価も「あの人」のほうが良いように思えます。実際、「あの人」は、私より、ずっと「良い人」です。残念なことに、それは事実なのです。

しかし、主は、いくら「あの人」が優れて良い人であったとしても「祝福の器」として用いられることはありません。

「あの人」が主のものとされない限り、主が「祝福の器」として用いられるのは、聖徒である「あなた」です。

詩篇4:3
知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 主は聞いてくださる。

主は「ご自分の聖徒」を特別に扱われるのです。

主は「正しい世の人」ではなく「失敗した聖徒」を用いてくださいます。

「行い」に基礎を置いてはなりません。

良い行いは誇れません。そうであるならば、逆に、悪い行いで自己卑下する必要もないと言うことです。

それと「悔い改めない」こととはもちろん別です。そんなことは分かりますよね。

たとえ、失敗した日があっても、それでも祝福を祈りなさい。

「私なんて」と言ってはなりません。

アブラハムは、おそらく恥ずかしい思いをしたでしょう。それでも、手をあげてアビメレクのために祈ったのです。

創世記20:17
そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒されたので、彼らは再び子を産むようになった。

愛する兄弟姉妹。

私たちは、もっと堂々と生きましょう。人の祝福のために祈りましょう。あなたの祈りによって「いのちを得る」人がいることを信じなさい。

アブラハムを祝福の器として用いられた方は、あなたをも祝福の器として用いられます。

聖徒を特別に扱われる方を感謝します
私は、主の祝福の器です
どんなときでも手をあげて祝福します