詩篇23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
それは陰なのです
「たとえ死の影の谷を歩むとしても」とダビデは言いました。
「死の陰の谷」と聞くと、何かとても恐ろしいように感じてしまいます。
しかし、よく読んでください。
ダビデは「死の谷」とは言っていません。「死の陰」と言っているのです。
それは「陰」であって「死」そのものではありません。
陰があるからにはどこかに光があるにちがいない、と言った人がいます。その通りです。死とは、私たちクリスチャンが人生という旅をして行くとき、その道筋のかたわらに立っているような存在です。天の光が死の上を照らし、私たちの人生の道筋に陰を投げかけているのです。背後に光が存在していることを喜びましょう。
ダビデの宝庫 C・H・スポルジョン著 いのちのことば社
私たちは、人生の中で「死の陰の谷」を何度か通ります。
「もうダメだ」と何度も思うでしょう。
問題が大きすぎて立ち向かえないと感じることもあるでしょう。
恐れが重く暗くのしかかってくるように感じることもあります。
恐怖に飲み込まれてしまいそうになることもあります。
しかし、覚えてください。
その「恐れをもたらすもの」がどれほど巨大で、不気味に見えたとしても、私たちが通るのは「その陰」であるということを。
「陰」があまりにも濃くて暗闇に紛れ込んでしまったと感じることもあるかもしれません。
その「恐れをもたらす何か」は、確かに「光」をさえぎってしまったのでしょう。しかし、「光」が失われることは決してありません。
ダビデは「死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません」と言っています。
彼は「死の陰の谷」の歩き方を知っているのです。彼は「死の陰の谷」をビクビクしながら歩みませんでした。
「いつ、わざわいが起こるだろう」と怯えながら歩きはしませんでした。
彼は知っていたのです。
「たとえ死の陰の谷を歩くとしても」自分は決して一人ではないということを。
ダビデは言います、
「あなたが、ともにおられますから」と。
主がともにおられます。たとえ、あなたが、今、どのような道を歩んでいたとしても、必ず、そばに聖霊様がおられます。
私が通っているのは「陰」であって「死」そのものではないと、言い聞かせても、それでも私は怯えてしまいます。暗い谷を歩くのは、やはり怖いものです。
しかし、暗い谷の中でしか感じることのできない「臨在」があるのです。
「死の陰の谷」を通ることで、主とともにある恵みを味わうことができるのも、また本当のことです。
主は「陰」の濃さに怯える私をご存知です。暗闇に立ちすくむ私を導いてくださいます。
「死の陰の谷」を歩くときも、主はともにおられます。
主は、今日も、あなたとともにおられます。
主は、私とともにおられます
私は、絶えず、あなたとともにいます
主よ、死の陰の谷を私は恐れません