創世記12:13
私の妹だと言って欲しい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。
アブラムを導いたのは「恐れ」です
その地に飢饉が起こったと記されています。それは、とても激しい飢饉であったようです。
少し忍耐すれば持ちこたえられるという程度ではなかったようです。アブラムはエジプトにしばらく滞在するという決断をしました。飢饉は激しくエジプトに下るしか選択肢はないように見えました。
私たちは、この話の結末を知っていますから、ついつい思ってしまいます。
「アブラムはエジプトに下るべきではなかった」
「カナンの地から出てはならなかった」
「主の御心を求めず勝手に決断したことが悪かった」
そのように理由を考えてしまいます。
確かに、アブラムは約束の地に留まるべきだったのかもしれません。主の導きを求めるべきであったのは確かです。しかし、アブラムがエジプトで経験した出来事は「エジプトに下ったから」という理由で起こったのではありません。
エジプトでなくても、アブラムは同じ過ちを犯したでしょう。それは、再び、ゲラルの地でアビメレクに対して同じことを繰り返していることからも明白です。
問題はエジプトに下るという「決断そのもの」ではなく「何に導かれたか」ということです。つまり、「何によって決断したのか」ということです。
何がアブラムをエジプトに向かわせたのでしょう。
それは激しい飢饉のせいです。激しい飢饉がもたらす結果をアブラムは想像することができました。このままカナンの地にいたら危ない、生きていくことは不可能だと彼は思いました。アブラムは「いのちを守るために」エジプトに向かったのです。
つまり言い換えるなら「いのちを失うかもしれない」という「恐れ」がエジプトに下るという「決断」を導いたのです。
アブラムは恐れに捕まったのです
アブラムは、一族を引き連れてエジプトに向かいます。エジプトはナイル川の恩恵を受けていて作物が豊かにありました。そこに行けば食物にありつけます。「いのちを守る」ことができるのです。
しかし、エジプトに近づいてもアブラムの心は晴れやかになりません。かえって憂鬱が増します。「食物」の心配はなくなったけれど、別の心配がアブラムの心を恐れさせました。
アブラムは「いのちを守る」ためにエジプトに来たのに、そのエジプトでまたも「いのちを失う」ことに怯えているのです。
「あなたが私の妻だと知られると私は殺されてしまう。だから妹だと言って欲しい。そうすれば、私は生き延びられるから」と言っているのです。
なんという情けない頼みでしょう。自分のいのちの盾に妻を利用しているようなものです。私たちの信仰の父はいったいどうしてしまったのでしょう。
これはアブラムの中にある「弱さ」のせいです。その「弱さ」が「恐れによる導き」を受け入れてしまったのです。
このようなことは誰にでも起こり得ると私は思います。
いつもは「信仰によって対処できる」のに、ある日は「同一人物か?」と疑ってしまうほど怯えたり、狼狽えたりしてしまいます。
アブラムは信仰によって自分の意志、思い、計画、感情などを祭壇にささげました。彼は、信仰によって「見えない方」を見ながら歩くと決めたのです。そのようなときのアブラムは「信仰の父」という呼び名にふさわしい生き方ができます。
「大いなる国民とする」という神様の約束は、とうていアブラムに理解できるものではありませんでした。「この地をあなたの子孫に与える」という約束も理解しがたいものだったでしょう。
アブラムは理解はできなかったけれど受け入れました。自分に現れてくださった主に「祭壇」を築きます。アブラムは、主を信じて自分自身の「どうやって?」という思いをささげたのです。それが「信仰」です。
しかし、飢饉が起こった時、生来のアブラムが現れました。賢いアブラムは分析して「どうやって?」という方法を考え出します。
そこには「信仰」はありませんでした。「どうやって?」という方法を考え出した瞬間から、アブラムを支配したのは「目に見える世界」です。生来の人には「信仰」は持てません。見えるところに従って歩むしかなくなります。アブラムは「自分の目」によって歩み始めました。
そして、私たちは、行く先も知らずに旅立てる信仰の人アブラムが、飢饉に怯えてエジプトに下る姿を見るのです。
世の中の考え方の基盤は「恐れ」です
見える世界、つまり世の中の考えの基盤は「恐れ」です。この世の君であるサタンは、世の人を「恐れ」によって縛っています。サタンの最大の武器は「死の恐怖」です。
イエス様は、私たちを「死の恐怖」から解放してくださいました。私たちは、もうつながれた奴隷ではありません。しかし、「信仰」ではなく「自分の目」によって歩むならば、サタンの偽りによって、再び「奴隷のくびき」を負って歩むことになります。
つまりキリストにある自由の子としてではなく、奴隷の子として歩むことになるのです。サタンは、横暴な主人なので私たちは再び「恐れ」によって支配されてしまうのです。
アブラムは「信仰」ではなく「自分の目」によって歩んだので「恐れ」に捕まってしまいました。ゆえに「信仰の父」が自分のいのちの盾に妻を使うなどという失態をおかしたのです。
「自分の目」によって歩むことこそ、神様がアブラムから取り除きたいことであったと思います。
恐れは恐れを呼び、最終的に「世」に囚われます
私たちはここに一つの原則を見ます。すなわち「恐れは恐れを呼ぶ」ということです。「恐れ」によって導かれた先には、別の「恐れ」が待っているのです。
「食物がなければいのちが危ない」という恐れは「エジプト」によって解消されたように見えました。
しかし「エジプト」は、アブラムに別の種類の恐れをもたらしました。今度は「エジプト」がサライを奪うために自分のいのちを奪うかもしれないという「恐れ」でした。
もし、あなたが「恐れ」によって導かれているならば、一つの「恐れ」から逃げ出せたとしても、別の「恐れ」が追いかけてくるでしょう。
そして、その「恐れ」に対処する手段は「この世」と同じ手段になります。アブラムは「偽る」ことを選びました。それはサタンと同じ手段です。サタンは偽り者、偽りの父です。
そうすると、もう「エジプト」から抜け出せなくなります。
アブラムは、自分の偽りのせいでサライをエジプト王に召しだされてしまいます。少しの間、エジプトに滞在するつもりでしたが、まさか、サライをそのままにして戻るわけにもいかないでしょう。アブラムは「エジプト」に囚われてしまったようなものです。
一つの「恐れ」から逃れるために講じた手段によって、別の「恐れ」を招きます。そうして、最終的には「この世」に囚われてしまうということが、私たちの身にも起こり得ます。
「エジプト」は、自分たちの中にいるアブラムに良くしてくれます。
何もかもうまく運んでいるからといって、御心を行っているとは限らないのです。調子よく物事が運ぶことが祝福であると考えているならば、逆境の時、必ず、つまずいてしまうでしょう。
主は目的を持っておられます
確かに「約束の地」に住んでいたとしても飢饉は起こります。私たちは、御心のままを歩んでいたとしても、時折、苦難に遭います。困難、苦難は御心から外れている証拠にはなりません。
パウロは苦難に遭った時に言いました。
パウロたちは「死ぬかと思った」と言っています。「生きる望みさえ失う」ような苦難に遭ったのです。そして、その苦難を「死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるため」であったと理解したようです。
アブラムの飢饉は、実にそのためであったのだろうと思います。主は、アブラムを一歩一歩進めていかれます。主が、少しずつアブラムを引き寄せておられるように感じます。
アブラムは「死者をよみがえらせてくださる神に頼る者」とされている途中なのです。人の目から見た失敗や成功は主の実際の目的ではありません。
私たちは「ああ、アブラムでも失敗するのだな」と思います。確かに、アブラムは過ちを犯したと言えます。しかし、この出来事は、神にあっては「失敗ではない」のです。
主は、飢饉を通して、生来のアブラムを引きずり出されました。アブラムの用いた卑怯な手段は「生来のアブラム」からでたものです。この出来事すら、主は用いることがおできになります。
エジプトに下ったことそれ自体が問題ではないのです。
別の飢饉がカナンの地に起こった時、アブラムの息子イサクはエジプトに下りませんでした。主が「エジプトへは下ってはならない」と言われたからです。
そこでイサクはゲラルに住みました。そこで種を蒔き、飢饉のときにも関わらず「その年に百倍に収穫」を見ます。主がイサクを祝福されました。
また、別の飢饉のときアブラムの孫のヤコブはエジプトに下りました。主は「ヤコブよ、エジプトに下ることを恐れるな」と言われました。エジプトで、ヤコブはヨセフを取り戻し、イスラエルは大いに増えるのです。
主は、どのようにしてでも飢饉から守ることがおできになります。問題は「場所」ではなく「恐れ」によって導かれたことです。
大切なのは認めることです
私たちは、自分の行動の「正誤」を判断したがります。しかし、本当の問題は「生来の自分」がひょっこり顔を出すことなのです。死んだはずの「古い人」が、私の中に「生き生き」と存在していることなのです。死んだのに「生き生き」していることこそ問題です。そして「生き生き」とした「古い人」は、私たちに対して主導権を握るのです。それこそが問題とするべきことです。
主は、私たちに「肉に属する人」として歩んで欲しくないと思っておられます。私たちは「御霊に属する人」として歩まなければなりません。
アブラムは、「恐れ」から逃れようと「肉の思い」で物事を進めました。しかし「肉の思いは死」なのです。そして、信仰による「御霊の思い」は「いのちと平安」なのです。
見える世界は「恐れ」で支配されますが、「見えない世界」は「いのちと平安」に満ちているのです。
後に、アブラムは「アブラハム」となり御霊に満たされ「望み得ない時に望み抱いて信じ」る者とされます。そして、ついには「イサクをささげる」ことにまで導かれていきます。
エジプトに下るという判断は失敗だったのかもしれません。偽りの手段は確かに過ちです。しかし、それらが「過程」であることも、また事実なのです。
私たちは失敗します。そして、思うでしょう。
「あの時の決断が間違っていたのかしら」
「あの時、もう一つの道を選んでいたらな」
確かに、私たちは間違った選択をして苦難に遭うことがあります。しかし、御心の場所にいても苦難に遭うことはあるのです。
大切なことは「認めること」です。自分の今いる「場所」のせいにしてはなりません。正しい場所にいても、おそらく同じことが起こるでしょう。
問題は「私の中の肉の思い」なのですから。私が「肉の思い」によって生きようとすること、それこそが大問題なのです。私たちの「肉の思い」は、決して、神に頼ろうとはしません。
肉の思いは「神に敵対する」のです。そして、肉のうちにある者は神を喜ばせることはできないのです。信仰によって生きることとは正反対です。
信仰によって生きることは、主を喜ばせます。主は、私たちを信仰によって生きる者にしたいと願われるのです。
信仰によって生きるとは「見えないものに目を留めて生きる」ことです。私たちは「求めるなら報いてくださる方」を信じます。私たちは「肉」に導かれません。私たちは「御霊」に導かれます。「御霊」は常に「主に拠り頼む」ように導かれます。
最初に天幕を張った場所に来て
アブラムは、ファラオに怒りの言葉を投げられはしましたが、「いのち」は守られました。実際、ファラオを騙したのですから、無事に帰れる保証などなかったのです。それにも関わらわず、アブラムもサライも持ち物も何一つ損なわれずにカナンの地に戻って来ることができました。
カナンの地の飢饉が収まっていたのかどうかは記されていませんが、もはや、そのようなこと、どうでもよかったのです。
アブラムは、最初に天幕を張った場所まで戻ってきました。そして、そこで以前と同じように、主の御名を呼び求めました。アブラム、「振り出しに戻る」です。
しかし、以前に築いた祭壇で、以前と同じように主の御名を呼び求めたとしても、実際には、全く同じではありません。アブラムは、確実に成長しているのです。
ある先生が言いました。「信仰の成長とは螺旋階段のごとし」と。
同じところをグルグルと回っているように見えても確実に屋上に近づいているという意味です。
私たちの信仰の歩みは、時として、同じ所を堂々巡りしているように感じることがあります。自分は、救われてから、まったく変化してないのではないかと悲しく思うことがあります。
しかし、そうではないのです。
アブラムは、以前、天幕を張った場所まで戻ってきました。エジプトに下った弱さを痛切に感じながらの帰還です。また、主の約束が「一方的な恵み」によるものであることも感じたことでしょう。
ともすれば、私たちは「自分の従順」「自分の奉仕」によって「祝福されている」と」勘違いしがちです。「罪を犯していない」から順調なのだと思います。
偽りを言って、サライを奪われたのは明らかにアブラムの失態です。にも関わらず、主は「ファラオとその宮殿」を打たれたのです。
アブラムは知らなかったかもしれないけれど、これは人類の危機であったからです。このままサライがエジプトに召しだされたままであったなら、私たちの救い主の系図が途絶えてしまいます。
けれど、主が介入された一番の理由は「アブラムに対する祝福の約束」がなされていたからです。アブラムこそ「祝福そのもの」だと主が言われたからです。主はご自身の約束に真実であられるからです。
私たちは覚えていなければなりません。このアブラハムの祝福に私もあずかっているのだということを。
ダビデは言います。
あなたは、主の「聖徒」ですか?
あなたが聖徒であれば、主はあなたを「特別」に扱ってくださいます。
私たちは、自分のいのちを守るためにエジプトに下る必要も、偽りを言う必要もないのです。そして、また、たとえ、自分の過ちのゆえに窮地に陥ったとしても「主の介入」を期待できるのです。なぜなら、主はご自分の聖徒を特別に扱われるからです。
恵みのみことばにゆだねます
アブラムは、無事にカナンに戻れたことを「奇跡」だと思ったに違いありません。ファラオを騙したのにお咎めがないなんて、そのようなことあり得ないでしょう。
最初に天幕を張った場所で、以前とおなじように主の御名を呼び求めたとしても、その心情は以前とは同じではなかったはずです。
アブラムは、自分の力ではない偉大な力が実際に働くことを知りました。主の約束が「口先だけ」ではないことを実際に体験したのです。
信仰の目を閉ざして、恐れによる決断をしたアブラム。その「恐れ」は次の「恐れ」を呼び、身動きができなくなりました。
しかし、主はそのアブラムの「弱さ」を知って、それでもアブラムを選ばれたのです。
私たちは「恐れ」によって導かれてはなりません。しかし、もし、自分の弱さのゆえに「恐れ」に導かれ、窮地に陥ったとしても諦める必要はないのです。
主は「聖徒」を特別に扱われることを覚えてください。私たちの窮地は、主の「恵みのみことば」を体験する機会となります。主は、私たちを成長させてくださいます。
そうなると、私たちには、もう何が良いことであったのか、悪いことであったのか分からなくなってしまうでしょう。私たちは自分の人生に起こったことを振り返って言うでしょう。
主は、私たちの苦しみさえ「幸せ」に変えられます。それは悪い事であったはずなのに、今の私を造った「一部分」となっていて、その経験がなければ成長ができなかったと思うようになるのです。
主の御手の中で「すべてが働いて益」とされます。主の御手の中で、私たちは自分の失敗さえも委ねて生きます。
「みことば」が私たちを成長させます。そして、神のみことばは「恵みのみことば」です。
「神と恵みのみことば」に私も「私」を委ねて生きます。そうすれば、私たちは成長します。そして、御国を受け継ぐものとなります。
私たちもまた、アブラムのように「死者をよみがえらせてくださる神に頼る者」とされる途中なのです。
アブラムのように「神の友」と呼ばれるために、私たちは主を呼び求めましょう。
祝福を祈ります。