【創世記5:24】
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
エノクという人について
「歴史」とは、原語では「トーレドース」といいます。創世記2章4節では「経緯」と訳されています。創世記の中で「トーレドース」つまり「歴史」とか「経緯」という語がでてきたら、ここから話が変わるのだなと思っていいでしょう。
創世記5章は「アダムの歴史」いわゆる「系図」です。創世記の系図は、ほとんどの場合、一番最後の人が「最重要」とされます。つまり、その人の話をしたいがための系図であるともと言えます。創世記5章の場合ですと「ノア」ということになります。
「生きて〇〇を生んだ。こうして彼は死んだ」と短いフレーズで人の一生が表されています。これが繰り返されていくのです。時代は流れていきます。同じパターンの繰り返しが続きます。ノアにつながる人々だけを列挙していきます。
けれど、その中で創世記の著者がこれは「特記すべき人物だ」と考えた人がいたのです。それが「エノク」です。
エノクという人は、聖書の中でほんの数節しか登場しません。けれど私たちの間では有名人です。エノクは憧れです。何をしてエノクは「有名人」となったのでしょう。
エノクは何もしませんでした。町を建てたとも、奇跡を行ったとも記されていません。書いていないだけで、町も建てたし、奇跡も行ったのかもしれませんが。しかし、書いていないということは、それはエノクの生涯において重要なことではなかったということです。
聖書は言います。「エノクは神とともに歩んだ」と。そして、神が「彼を取られた」のだと。
神が「彼を取られた」のです。彼は、この地から「いなくなった」のです。これは大事件だったに違いありません。創世記の著者は、ノアについて書きたいけれど「エノクの事件」だけは絶対に記述しなければならないと思ったのでしょう。それは聖霊様の導きによるものであると信じます。
エノクは神に喜ばれていた
なぜ神様はエノクを移されたのでしょう。
それは、エノクが「神に喜ばれていた」からです。そして、そのことは「移される前から」証しされていたと記されています。
エノクに「信仰」があったことは間違いありません。なぜなら「エノクは神に喜ばれていた」のですから。「信仰」がなければ「神に喜ばれること」はできません。エノクは、「神がおられること」と「ご自分を求める者には報いてくださる方であること」を信じたのです。
聖書には「エノク」についての情報は多くありません。彼について知れることはわずかです。
これだけです。たったこれだけなのです。けれど、ここにエノクの生き方が表れているのです。注目するべきは「エノクは神とともに歩んだ」ということです。そして、「神に喜ばれていた」ということです。
神とともに歩くということ
イエス様は約束してくださいました。
イエス様は「わたしは」ともにいると言われました。イエス様は、世の終わりまでともにいてくださいます。
では、「私」はどうでしょうか?
私は「誰」とともに歩んでいるでしょうか。もしくは、「何」とともに歩んでいるのでしょう。これは、とても大切な質問です。私は「誰」もしくは「何」と歩いているのかを自問してみなければなりません。
これは言い換えると「誰のくびきを負って歩いているのか?」ということです。
イエス様は「わたしのくびきを負って」と言われました。牛や馬の首に「木の枠」をはめて、荷車などを引かせるための「木の枠」を「くびき」と呼びます。
「くびき」は、牛などに農作業などをさせるためのものです。そして、行く先をコントロールするためのものでもあります。勝手な方向に歩いて行かないようにするためです。
つまり、イエス様のくびきを負うとは、「自分勝手に歩かない」ということでもあります。イエス様の導かれるままに、イエス様の願われる方向に歩いていくことです。
「わたしのくびきは負いやすく」と主は言われました。「負いやすく」とは、欄外の注釈を見ると「心地よく」と書かれています。つまり「苦しくない」ということです。それどころか「心地よさ」を感じると言われるのです。
たましいに安らぎを感じず、窮屈に感じる、縛られているように感じる、閉塞感を感じるのであれば、それはおそらく「イエス様のくびき」ではありません。何か別の「くびき」を負って生きているのです。もしくは、イエス様が導こうとしておられるのとは違う方向に向かって進んでいるのです。
「つり合わないくびき」とは、背の高さがつり合わない牛をつなぐことです。もしくは、力の強さが違う牛をつなぐことです。「つり合わないくびき」の牛たちは、真っすぐ前に進めません。一方に傾いて、いつまでもグルグルと円を描くだけです。もしくは、お互いに反対の方向に進んで苦しい思いをするだけです。
私たちは「神とともに」歩まなければなりません。以前は、サタンのくびきの下にいましたが、今は、解放されて神の所有とされたのです。
厳しい言葉ですね。耳をふさぎたくなります。しかし、考えねばなりません。
私たちは「世」と歩いているでしょうか?
それとも「神」と歩いているでしょうか?
私たちは「心」「いのち」「知性」を尽くして「主」を愛します。それは、「主体性」をもって「愛する」ことです。イエス様は「わたしはあなたとともにいる」と「主体性」をもって約束してくださいました。
それでは、私はどうでしょう?
「私」は、「世」ではなく「神」とともに歩くと決めたでしょうか?
「主体性」をもって「私は神とともに歩む」と決意せねばならないのです。それこそ、神に喜ばれることなのです。神とともに歩くことは「信仰」ぬきにはできません。神がおられることを信じないなら、どのようにして一緒に歩くことができるでしょう。
「エノク」は「神」とともにに歩んだのです。ゆえに「神に喜ばれていた」のです。そして、神はエノクを「取られた」のです。
エノクは携挙の型です
エノクの人生は、私たちのモデルケースだと思うのです。いわゆる「型」です。「携挙」の型でもあると個人的には信じています。私は「携挙」がないとは思えません。私は「再臨」があると信じていますが、それと同じように「携挙」があると信じています。
「世の終わりが来る! 黙示録の私訳と講解 奧山 実著」という本から少し引用します。
信仰によってエノクは天に挙げられました。エノクは携挙の型なのです。エノクは死を見ないで天に移されましたが、それは信仰によると聖書には記されています。携挙されるという信仰が大事です。そんな携挙などあるものか、と馬鹿にする者は挙げられません。携挙は信仰なのです。
世の終わるが来る! 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション P76
私は自分が「キリストにある死者」となるのか「生き残って引き上げられるのか」どちらになるのかはわかりません。けれど、必ず「主」とお会いすると信じています。そして、もし「生き残っている」なら引き上げられて空中でお会いすると信じています。
さて、どうしても「携挙」はあると信じていると言いたかったので脱線しましたが話を戻しましょう。
エノクの人生が、終末の時代に生きる私たちに大切なことを教えてくれているのは間違いないと思います。
その大切なこととは、ここで強調されている「エノクは神とともに歩んだ」ということです。主体性を持って、「私は神とともに歩む」という人こそ終末時代を生き抜く信仰者の特徴であると思います。
これから先、ノアの時代にむけて「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちて」いくのです。人の心は「悪に傾く」のです。そのような時代に神とともに歩む人は、ごくわずかだったでしょう。
エノクは知っていました
エノクは、65歳のときにメトシェラを生みます。おそらく、この時がエノクの転機だったと考えます。
メトシェラを生んで300年、エノクは神とともに歩んだと書かれています。
メトシェラを得たことで何か大きな変化を感じたのかもしれません。子どもを授かったことで、人生を見つめ直したのかもしれません。
エノクは、なぜわが子の名前を「メトシェラ」としたのでしょう?
本やブログで多くの先生方が説明してくださっていますが、一番わかりやすいと思った記事を引用します。
エノクの息子メトシェラ(「メトゥーシェラハ」מְתוּשֶׁלַח)という名前の「メト」は「死、死者」(「マーヴェット」מָוֶת)を意味します。「シェラ」は「シャーラハ」(שָׁלַחで「送る」という意味です。つまり「メトシェラ」とは「彼の死後に送られる」という意味です。
牧師の書斎 空知太栄光キリスト教会HP 銘形秀則師より
考えてみると不思議な名前です。「メトシェラ」とは「彼の死後に送られる」という意味だと言われます。
では、何が「彼の死後に送られる」のでしょう? これは、推測ではありますが、おそらく「ノアの大洪水」ではないかと思われます。
メトシェラは聖書の人物の中で最も長生きした人です。全生涯は969年です。
息子のレメク(ノアの父)よりも長生きしたのです。レメクの全生涯は777年です。
さて、ノアの大洪水は、ノアが600歳のときに起こります。
時間があるときに計算してみてください。ノアが600歳のとき、メトシェラは969歳です。つまり、メトシェラは大洪水の年に召されたということです。
これはあくまで個人的な意見ですが、私は、エノクは、神様から何らかの啓示を与えられていたのではないかと思うのです。それが「大洪水」だと確信していたかはわかりません。しかし、何らかの「さばき」が行われることは知っていたと思います。
エノクは預言者でした
エノクが預言者であったことは間違いありません。頻繁に預言していたのかどうかはわかりません。いわゆるイザヤのような預言者であったのかどうかもわかりません。けれど、預言を授けられていたことは間違いありません。
ユダ書によると、エノクは間違いなく「主が来られること」を預言しています。
ノアの大洪水の前に、主が「何万もの聖徒を引き連れて来られる」ことが預言されているのです。神様の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神とともに歩くために
エノクは、メトシェラを生んでから300年、神とともに歩みました。
エノクは「メトシェラの死後に送られる」何かがあることを信じていたでしょう。また、「主が来られる。不敬虔なものは罪に定められる」という預言を信じていたでしょう。
そして、そのことが「神とともに歩く」原動力になったと私は思います。
私達が生きている時代も、エノクの時代と同じです。
エノクの時代も、そして、今の時代も、神様のメッセージは変わりません。すべての不敬虔な行いと、主に逆らって語った暴言は「罪に定められる」のです。
エノクは「さばき」があることを知りました。「主が来られる」ことを知りました。そして、「神とともに歩いた」のです。
私たちも同じように生きることができます。
私たちは「イエス様が再び来られる」と信じています。今の世の中が「不敬虔な欲望のままふるまう」ことを見ています。そうであるならば、エノクと同じように「神とともに歩く」決意をせねばなりません。
ユダ書は続けて勧めています。
イエス様が本当に戻って来られること信じているならば、私たちはこのように生きたいと願うのではないでしょうか。信仰によって歩み、神の愛の中に保たれたいと願うのではないでしょうか。神とともに歩くとはそういうことです。
私は願います。
「私」は、神とともに歩みたいと自分の「心」「いのち」「知性」を尽くして願います。そして、願わくば「神に取られて」いなくなりたいのです。
愛する兄姉。
私たちは「神とともに」歩みましょう。この地に生かされている間、信仰によって歩みましょう。聖霊によって祈りましょう。神の愛のうちに自分自身を保ちましょう。
そして、目をあげて「主イエス・キリスト」を待ち望みましょう。主は、必ず戻って来られます。神とともに歩む私たちは必ず携えあげられます。私は、そう信じています。
祝福を祈ります。