No.42 信仰は聞くことから

二人の子が歩いている写真

【ルカ24:32】
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

エマオの途上での出来事です

二人の弟子はエマオという村に向かっていました。

ルカ24:16
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

二人の目はさえぎられていました。

ですから、イエス様が一緒に歩いておられのに分からなかったのです。

ルカ24:25
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

イエス様は彼らを「信じられない者たち」と呼ばれました。

彼らはイエス様を信じたいのです。しかし、十字架と復活があまりにも自分の理解を超えるので「信じられない者」となっているのです。

ルカ24:27
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

ヨハネ5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しているものです。

イエス様は、彼らに聖書全体に書いてあることを説き明かしてくださいました。聖書は、イエス様ご自身について証しているからです。

ルカ24:30~31
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

イエス様は、食卓に着きパンを裂いて渡されました。その瞬間、彼らの目は開かれたのです。彼らは言いました。

「私たちに聖書を説き明かしてくださる間、心は内に燃えていたではないか」

イエス様が、聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心は内に燃えていたのです。

キリストについての御言葉を聞くと「心は燃える」のです。

ローマ10:17
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

十字架と復活は、弟子たちにとって「理解を超えた大いなること」でした。彼らは「信じられない者」でした。

しかし、聖書の説き明かしにより、彼らの心の内は燃えました。そして、裂かれたパンを渡されて、目が開けたのです。

「大いなる理解を超えた」主の御業を信じたいと願うなら「聖書のことば」を聞くことです。

キリストについての御言葉は、私たちの心を燃やします。

そして、その心で十字架の御業を覚える時、私たちの目は開かれます。

「信じられない者」から「信じる者」へ変えられます。

なぜなら、信仰は「聞くこと」から始まるからです。

私たちのそばには「聖霊様」がともにおられます。

聖霊様は、すべての真理に私たちを導き入れてくださいます。

聖霊様は、イエス様の栄光を現わされます。

私たちが望めば、聖霊様は喜んで「聖書全体」を説き明かしてくださるでしょう。

私たちも「信じて」「栄光を見る」ものとなれるのです。

ヨハネ11:40
イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

私は「聖書全体」の説き明かしを聖霊様に願います。
私は「信じる者」となります。
目が開かれて「神の栄光」を見る者とされます。