ヘブル3:7~8
ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野の試みの日に神に逆らったように。
心を頑なにしてはならないのです
「心を頑なにするな」とは、直訳すると「心を硬くするな」です。
「心」というものは「硬くなる」ものなのです。
また、聖書は「頑なにしてはならない」と言っています。つまり、それは「自主的に」頑なにすることができるということです。
そこには「進んで頑なにする」というニュアンスが含まれています。
「荒野での試みの日」とは、いつのことでしょう。
それは、イスラエルが「水がない」とわめき散らし、主がモーセに命じて「岩から水」を湧き出させた「あの日」のことです。
「マサ」とは「試み」、「メリバ」とは「争い」という意味です。
あろうことか、イスラエルは「主を試み」「主と争った」のです。
これが「心を硬くした者の態度」です。人は、誰かと「争う」とき、その態度を「硬化」させます。私たちが、主と「争う」とき、私たちは「主に対して硬化している」のです。
しかし、なぜ、イスラエルは「心を硬く」してしまったのでしょう。
それは、彼らのうちに沸き上がった「不平不満」が原因なのです。
イスラエルは、「渇き」のゆえに「不満」を感じました。そして、彼らは「不平」を言ったのです。
彼らの「不平不満」は、彼らの「心」をどんどん硬化させました。自分たちの「不平不満」に煽られてしまって、モーセやアロンの声を受け入れることができなくなったのです。
そして、彼らは言ってしまったのです。
「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」
彼らの心は「不満」で膨れ上がり、もはや「望んだとおりの物」を得るまでは引き下がれないと感じていました。彼らは「不平不満」を育てることを選び、自ら「心を硬く」していったのです。
「心が硬く」なる原因は「不平不満を育てること」です。
「不平不満」を軽く見てはなりません。
もし、あなたが心に「不平不満」の種を持ち、それを育てることを自分に許可してしまうなら、必ずいつか「硬い心」になるでしょう。
「心を頑なに」してはなりません。あなたの心を「硬い心」に育て上げてはなりません。
聖書は「不平不満」ではなく「感謝に満ちよ」と言っています。
それは「心を硬く」しないためなのです。
すべてのことに感謝します
主の良くしてくださったことを忘れません
どうか御霊の声を聞かせてください

