詩篇37:8
怒ることをやめ 憤りを捨てよ 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
憤りは捨てるのです
「腹を立てる」ことが悪への道だとダビデは言います。
ダビデも「よこしまな者ナバル」の態度に怒って罪を犯しかけたことがありました。(Ⅰサムエル25章を読んでください)
この時、ダビデは聡明なアビガイルのおかげで罪を犯さずに済みました。
アビガイルは「ナバル」を「よこしまな者」と呼びました。ちなみに「ナバル」とは「愚か者」と言う意味です。
また、エリの二人の息子「ホフニ」と「ピネハス」も「よこしまな者」と呼ばれています。
「よこしま」とは「ベリヤアル」という言葉です。これは、サタンの別名としても用いられています。
「ベリヤアルな者」は、私たちに怒りを抱かせることが多いのです。彼らは、主を知らないので、自分勝手に自分の利益のままに行動するからです。
ベリヤアルの親玉であるサタンは、そこにつけ込みます。
「機会」とは「場所」とも訳すことができます。
サタンは「怒り」によって、私たちのうちに「場所」を得ようとしているのです。私たちが聖霊充満になることを阻止しようとしているのです。
そして、その「場所」を足掛かりとして、私たち全体を捕えようとしているのです。
「怒っても罪を犯してはなりません」と聖書は言います。私たちは、衝動的な怒りによって発生する罪を警戒しなければなりません。
「怒り」は、人を異常に力づけ、普段以上の行動力を生み出すことがあります。ダビデでさえ、怒りによって「ナバルの家」を滅ぼし尽くそうとしました。
「怒り」を原動力としてはなりません。たとえ、それが「正義」に基づく「怒り」であってもです。どう考えても相手に完全な非があったとしてもです。
「怒り」では「神の義」を得ることはできません。「怒り」で「義」は実現しないのです。
私たちは「たましい」に場所を設けられてはなりません。「怒る」に遅くなる方法は一つです。
「心に植えつけられた」と聖書は言います。
主が、私たちに「植えつけられた」みことばがあるのです。私たちの心には、すでに「みことばが植えつけられて」います。あなたのうちにも「みことばは植えつけられて」います。
それを素直に受け入れるのです。
その「みことば」は、私たちを悪への道から救いだしてくれます。
私は御言葉を素直に受け入れます。
聖霊様で満たしてください。