詩篇51:10
神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。
きよい心を造ってくださいと祈ります
ダビデは、主に「きよい心を造ってください」と願っています。
「造り」と訳されている語は「バーラー」です。これは、創世記1章1節で「神が創造された」と訳されている語と同じです。
この「創造した」ということばは、「切り取って形作る」「建てる」という意味を持っているが、聖書の中では、これは神を主語としてのみ用いられる動詞である。またそれは素材なしに創造する場合に用いられている語である。
創世記 坂野慧吉著 いのちのことば社
ダビデは、自分の心はもはや「自分の力では変えられない」ことを悟りました。
私たちは「変わろう」とします。
何かを「やめよう」とします。
明日からは「絶対にやらない」と誓います。
しかし、それは「ことごとく失敗」に終わるでしょう。
なんと「意志の弱いことか」と嘆きますが、自分の力には「限界」があるのです。
ダビデは切羽詰まっていました。もはや「自分を信じること」はできません。誘惑に負けた弱い自分を痛感しています。
「きよくない心」が確かに存在しています。「揺るぐ自分」を感じています。
ですから、ダビデは祈ったのです。「主よ、きよい心を造ってください」と。
きよい心は「造られる」ものです。
それは「神のみ」が造ることのできるものです。
主は「切り取って」新しく造ることがお出来になります。
何の素材もないところから「創造」することがお出来になります。
たとえ、闇に覆われていて「良き素材」が一つもないような心であっても、そこから「きよい心」を造りだすことがお出来になります。
私たちは「頑張る」ことをやめなければなりません。
「頑張る」のではなく「認める」のです。
私には「無理だ」ということを認めるのです。
私には「良き素材はない」ということを認めるのです。
その上で「主は無から有を生み出すことができる方」だと認めるのです。
主には「不可能」はありません。主はお出来になります。
「きよい心」を造るのは「神の御業」です。それは、何もないところから「光」を生み出された「創造のわざ」と同じです。
ダビデは続けて祈ります。
ダビデは、それが「聖霊のみわざ」であることを知っていました。
新しい創造には「聖霊の力」が必要なのです。聖なる御霊が、私たちの心を造り変えてくださいます。
主は、喜んで「きよい心」を造ってくださるでしょう。
私たちは、ただ「認めて」ひれ伏すのみです。
主よ、きよい心を造ってください
聖霊様に心を明け渡します
揺るがない霊を新しくしてください