ヘブル10:14
なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
問題は様々、しかし、解決は一つです
「永遠に完成された」とは「すべての贖いが完了した」ということです。
私たちは「永遠に完成された」のです。
「ひとつのささげ物」とは、もちろん、私たちのイエス様のことです。主は、自ら十字架で血潮を流してくださいました。
ただ一度、あの日、イエス様は十字架に架かられました。そして、すべてを「完成」されたのです。
私たちの「贖い」は完成しています。それは、もう他に「何も付け加える必要がない」ということです。
しかし、私たちの多くは「自分の行い」「世の中のやり方」を付け加えてしまいます。それはまさに「十字架だけでは足りない」と言っているようなものです。
イエス様は「永遠に完成」してくださったのに、私たちは「乏しい」「苦しい」「傷がある」「染みがある」者として生きています。
そして、それを解決しようとして孤軍奮闘します。もしくは「世の中」に解決策を求めてしまうのです。
確かに、あなたの抱えている問題には「解決」が必要でしょう。そして、あなたは、それを解決しようと真面目に取り組んでいるのでしょう。
あなたは、自分のできる精一杯のことをしたのかもしれません。けれど、頑張っても頑張っても「解決」には至りません。
それは「最も大切なこと」であり、そして「唯一のこと」を忘れているからです。
「完了した」とは「すべて支払い終わった」とも訳せます。あなたの債務は「すべて支払い終わった」のです。
あなたが人生において「支払うべき負債」は、すべてイエス様が支払ってくださったのです。
あなたは「苦しみ」「悩み」「悲しみ」を自分でどうにかする必要はないのです。
「主よ、どうすればいいのでしょう」と私たちが泣き叫ぶとき、主は言われます。
「もう解決済みなのだ。すべて完了している。我が子よ、それは永遠に完成されている」と。
世界には多くの問題があるでしょう。人には「それぞれ別の」問題があります。あなたの問題と私の問題は違う種類のものでしょう。
しかし、私たちに与えられている解決方法はただ一つだけです。
すべての問題の解決は「十字架」にあるのです。
主が「永遠に完成」してくださったことを忘れてはなりません。
私たちのすべてが贖われていることを忘れてはなりません。
それは「完成」なのです。何も付け加える必要はないのです。頑張るのではなく「十字架」を見上げるのです。私たちの「解決」はすでに「ある」のです。
「どうすればいいのか」と泣き叫ぶようなときには、十字架を見なさい。十字架で、主が「何を背負って」くださったのかを思い見るのです。
イエス様は「罪」だけを背負われたのではありません。「罪」の結果、必然的に生じる「呪い」「処罰」「苦しみ」「悲しみ」も背負われたのです。
あなたの心が「重たい」と感じるすべてを、イエス様は背負ってくださいました。
私たちは、どんなときでも感謝をもって信仰を表します。
「主よ、すべての解決を受け取ります。主がすべてを完成されたことを感謝します」
主よ、あなたの十字架を感謝します
すべてを解決してくださっていることを信じます
主の十字架の意味をますます分からせてください