詩篇139:23~24
神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。
徹底的に調べてくださいと言っているのです
人の心は「ねじ曲がっている」とエレミヤは言っています。
パウロでさえも「自分のしていることが分からない」と告白しています。
「人の心」とは、自分の力ではどうにもならない「ねじれ」を持っていて「自分でも分からないもの」なのです。
ゆえに、ダビデは祈りました。
「探り」とは「捜す」「徹底的に調べる」「研究する」などとも訳せる語です。
「調べ」とは「試みる」「吟味する」「精密に見る」という意味です。
つまりダビデは「徹底的に、余すところなく、細かく、底の底まで」自分の心を見てくださいと求めているのです。
それは「自分の潔白」を証明するためではないでしょう。むしろ、逆であると思います。
ダビデは「導かれたい」のです。「導かれる」とは「案内される」という意味です。
ダビデは「とこしえの道に案内されたい」のです。
そのためには、主によって「傷」が癒される必要があるのです。
「傷」と訳されているヘブル語にはいろいろな意味が含まれています。
「傷」「悪いこと」「悲しみ」「よこしま」「不義」「痛み」「偶像」などという意味があります。
ダビデは、自分の心に隠されている「さまざまな傷」を知ってくださいと願っています。
あなたの中にある「傷」は「悲しみ」かもしれません。
それとも「痛み」でしょうか。
もしくは「よこしま」な思いに悩まされているでしょうか。
それとも「偶像」を密かに隠しているでしょうか。
いずれにせよ、それらの「傷」は、あなたを「とこしえの道」から迷い出させるものです。
「とこしえの道」とは「いのちの道」です。「とこしえの道」から迷い出るならば、私たちは「いのち」を失ってしまいます。
私たちは「自力」で「とこしえの道」を歩むことはできません。自分で「自分の心を案内する」ことはできないのです。
私たちには「導いてくださる方」がどうしても必要なのです。
ゆえに、祈りましょう。
私たちは、ダビデの祈りを自分の祈りとしましょう。
すでに「すべてをご存知の方」の御前に、自らの意志をもって「心を明け渡す」のです。
「主よ、知ってください。探り、調べ、すべての傷を癒してください。慰めを与え、悔い改めに導いてください。そして、私をとこしえの道に案内してください」
主は、あなたの思いを「読み取って」おられます。主は、あなたの願いに応えてくださいます。
主は、あなたを「とこしえの道」に案内してくださいます。
私たちは、主に導かれて歩くのです。
主よ、私を探って調べてください
主よ、私の傷を癒してください
私をとこしえの道に案内してください