詩篇22:3
けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
それは、信仰告白だったと思うのです
この聖句は、以前の新改訳ではこのように訳されていました。
ずいぶんと印象が違うように思えますが、どちらにも訳すことが可能なのです。それがヘブル語の面白いところですね。
イスラエルに住んでいたことのある牧師さんに教えてもらったことがあります。
「イスラエルで住所を伝える時には、私は、どこどこ地区に座っていますと言えばいいんだよ」と。
つまり、ヘブル語では「座る」と「住む」という言葉は、同じ単語なのです。
「座る」「住む」「とどまる」「住みかとする」「位置する」「置く」などと訳すことができます。
主は、賛美に「位置しておられる」と訳しても間違いではないのです。
詩篇22編は、悲痛なうめきから始まります。主イエスが、十字架上で引用されたのは、この詩篇です。
あたり一面が闇に覆われ、愛し慕い求める唯一の方の御顔が隠されました。
「わが神 わが神」と呼び求めても、その呼び声が空しく響くだけです。
「神は、本当に私を見捨ててしまわれたのだろうか」
いや、そんなはずはないと打ち消しても、そのような考えが頭をグルグルと回り続けてしまうことがあります。
もし、あなたが「神の存在」を見失っているのなら…
「主よ、どこにおられるのですか」と空しくつぶやいているのなら…
どうか思い出してください。
主の住所は「賛美」であることを。
あなたが「賛美」をささげるなら、主は「そこ」におられます。
あなたの賛美のうちに、主は臨在を現わされます。主は、必ず「ここにいるよ」と言ってくださいます。
イエス様は、ただ「つぶやかれた」のでないと私は思います。ただ、不安を口に出されたのではないはずです。
今は、御顔を隠しておられるけれど…
今は、呼んでも答えて下さらないけれど…
それでも「あなたは聖なる方、賛美のうちに住まわれる方です」という信仰告白であったと私は信じています。
イエス様は、十字架の上にあっても「信仰」をお捨てになりませんでした。イエス様は「信仰の創始者であり完成者」なのです。
「主よ、どこにおられるのですか」と感じているならば、賛美しなさい。
「御顔が見えない、御声が聞こえない」と不安に思うなら、賛美しなさい。
主は「賛美」のうちに住まわれます。「賛美」のうちに座されます。「賛美」のうちにご自身を置いてくださるのです。
「どこにおられるのか」と探し回るのはやめなさい。
立ち止まり、両手を上げ、そして「賛美」しなさい。
「賛美」のうちにご自身を現わしてくださる方に信頼しなさい。
「主はそこにおられる(アドナイ・シャンマ)」のです。
私は、両手を上げて賛美します
主よ、あなたはここにおられます
聖なる御名を賛美します

