マルコ8:17
イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。
弟子たちは議論していました
弟子たちは、七つのかごに集めたパンを舟に積み込み忘れたのです。
気がついたときには、舟はすでに岸を離れ、パンはその場に置き去りにされていました。恐らく、群衆の皆さんが家に持ち帰ったことでしょう。
そのようなとき、イエス様が言われました。
これは、パリサイ人の心の伴わない律法主義と、ヘロデの世俗主義に注意せよと言うことでしょう。
それらの「種」を心に入れて育ててはならないと言われたのです。
マタイによると弟子たちは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って議論を始めたのです。
つまり「なぜ忘れたのか」「だれが忘れたのか」「どうやってパンを取り戻すか、手に入れるか」などと言い合い始めたと言うことでしょう。
これは、とんでもなく見当違いな議論です。イエス様は「手持ちのパン」がないことを心配したり、責めたりしてはおられません。
弟子たちが「勝手に」心配したり責め合ったりしているだけなのです。
イエス様は言われます。
弟子たちは「一つのパン」を真ん中において議論をしていました。
「七つのパン」で四千人を満腹にさせられた方が目の前におられるのに、彼らは「一つのパン」しかないことを嘆いているのです。
「五つのパン」で五千人を満腹させ、尚且つ、余りが十二のかごいっぱいになったことを忘れて「なぜ、パンが一つしかないのか」と責め合っているのです。
あなたが「持っているもの」を見るのはやめなさい。
それは、あなたの目を塞いでしまうからです。
あなたが「何をしてしまったのか」を考え続けるのはやめなさい。
それは、心を頑なにするからです。
「どうすればいいのか」を考えて悩むのはやめなさい。
思い煩いが、主のみことばを曲げてしまうのです。
私たちが「一つのパン」を見続けて、アレやコレやと議論を続けているならば、イエス様の教えを聞き逃すことになるでしょう。
弟子たちの議論は、滑稽なほど見当違いなものです。
そして、それと同じくらい、私の「悩み」や「思い煩い」も、滑稽で見当違いなものなのです。私は、たびたび、この聖句に導かれます。そのたびに「まだ、悟らないのか」という主の御声を聞くような気がします。
私たちは「一つのパン」から目を離しましょう。そして、主が本当に教えたいと願っておられることに耳を傾けましょう。
主よ、お語りください
私の耳を開いてください
悟る心をお与えください

