No.17 イエス様に根ざす

公園の木

【マタイ13:20~21】
また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

根がなければ枯れます

岩地に蒔かれた種は、根付くことができません。

岩地とは、御言葉の上辺だけを聞く心のことです。

それは言い換えると、与えられる「物」と「事」のみを見ているということです。

そういう心では困難や迫害に耐えることはできません。

コロサイ2:6~7
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。

私たちはイエス様にあって歩みます。

イエス様のうちに根ざします。

イエス様にしっかりと根ざすためには、イエス様を「主キリスト・イエス」として受け入れることが必要です。

ローマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

「イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」救われるのです。

あなたは、イエス様を主と告白しましたか?

使徒26:18
それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに、相続にあずかるためである。

私たちは、闇から光へ、サタンの支配から神に立ち返りました。

救われるとは、「立ち位置が変わる」ことです。

支配権が移されることです。

私たちは、サタンの支配から解放されて「自分自身のもの」になったのではありません。

「イエスを主とするもの」となったのです。

大切なことは誰が「主」であるのかということです。

荒野でつまずいた多くのイスラエル人は「水がない」「肉が食べたい」とわめきました。

「エジプトで死んでたら良かった」などと言いました。

自分の欲しい物が与えられなければ不満に思う。

困難が起これば「神は愛なのになぜ?」と不平を言う。

これでは一体どちらが「主」なのでしょう?

私たちは、見えている何かに根ざしてはなりません。

主イエスに根ざすのです。

目に見える何かは、変わったり、失ったり、壊れたりするでしょう。

けれどイエス様は決して変わりません。

ヘブル13:8
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

ローマ10:11
聖書ははこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

私は、イエス様を主と告白して歩みます。
私は、決して失望させられることはありません。
私は、イエス様に根ざします。
私は、いつまでも変わらない方を信頼します。