ヘブル10:22
心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
その心は離れています
「偽善者たち」とイエス様は言われました。
「偽善者」とは「仮面をかぶる者」という意味です。「俳優」と訳すことができます。つまり「演技をする人」という意味です。
古代ローマ帝国では、6世紀の末ごろまで演劇と言えば「パントマイム」のことでした。とても大流行していたようです。
舞台の中央で俳優がパフォーマンスを披露しました。もちろん無言です。彼らは、仮面を付け替えることで様々な人を演じ分けました。青年から老人まで、男性も女性も演じることができました。
つまり、イエス様は、パリサイ人たちに向かって「献身を演じている者たちよ」と言われたことになります。
パリサイ人たちは「見せる」ために宗教家らしいことを行っていました。
役者が演じるのは観客に見てもらうためです。そして、できれば「拍手」してもらいたいと望みます。
パリサイ人たちは「見せるため」に施しをしました。「見せるため」に断食をしました。「見せるため」に長い立派な祈りをしました。それは「人にほめてもらおう」と思ったからです。
「人に見せるため」に何かをするならば「世の報酬」は得るでしょうが、神の「心」は失います。
パリサイ人が何かを行なえば行うほど「心は神から離れて」いったのです。
私たちの「その心は遠く離れて」いないでしょうか。
「神のために」と一生懸命に善い行いをしていても「遠く離れてしまう」ことはあるのです。
主が「うわべ」だけを要求される方ならば、アダムとエバに「いのちの息」を与えることはされませんでした。「いのちの息」を与えられた「人」だけが、神と交われるのです。「人」は他の生き物とは違うのです。
私たちは「交わり」の中に入れられるために召されたのです。
主が望んでおられるのは「交わり」です。
形式的な心の伴わない「正しい行い」は、主の心を傷つけます。心がひれ伏さない礼拝は、ただの儀式です。心をささげない賛美は、カラオケと同じです。
私たちはいくつもの仮面を持っています。あなたは、いくつ仮面を持っていますか。私たちは、教会用、仕事用、家庭用と上手に使い分けることができるものです。
一人でいるときさえ、仮面を被ることがあります。祈る時には「祈り専用」の仮面を被ることもあります。「自分で自分を満足させるため」の賛美や祈りでは、神の「心」の近くには行けません。「人に見せるため」とは「自分」のことも含むのです。
主が求めておられるのは、あなたの「真心」です。
私は仮面を捨てます
主よ、私の心をささげます
真心から近づきます