ローマ6:11
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだものであり、神に対して生きた者だと、認めなさい。
認めなさい、と言われます
パウロは「認めなさい」と言っています。
私たちは「何を認める」のでしょうか。
イエス様は「ただ一度罪に対して死なれ」ました。そして今は「神に対して生きておられ」ます。
ですから「同じように」私たちも「自分は罪に対し者死んだ者であり、神に対して生きた者だと、認めなさい」と命じられているのです。
「認めなさい」と訳された語は「計算する」「勘定に入れる」「考慮に入れる」などという意味があります。
ある人は「証拠を考慮に入れて判決を出す」と訳しています。
私は、個人的には「勘定に入れる」という訳が気に入っています。
それでは、私たちが「勘定に入れるべきこと」とは何でしょう。
それは「キリストが罪に対して死なれたので、私も同じように罪に対して死んだ者だ」ということです。
また「キリストが神に対して生きておられるので、私も神に対して生きている者だ」ということです。
日々の歩みの中で、私たちはこれらのことを「勘定に入れて」生きなければなりません。
それが「認める」と言うことなのです。
私たちが「認める」ことのできる根拠は「キリスト」です。
私たちは、イエス様と「同じように」なるのです。
私たちは信じています。私たちは「キリストと同じように」なるのです。
「後に」そうなるのではありません。
「今」すでにそうなのです。
私たちは「今」すでに「罪に対して死んだ者」です。
誘惑に立ち向かう時、そのことを「勘定に入れて」ください。
「自分は罪から逃げられない」などと告白しないでください。死んだ者は、罪から解放されているのです。
悪しき敵は「おまえには、新しい歩みはできない。無理だ」とささやくでしょう。
しかし、私たちには「死んでくださった方」がおられます。
イエス様を「勘定に入れる」ことを忘れないでください。
私には「無理」に見えても、キリストの御業は「完全」であることを覚えてください。
御父は、御子にあって「私たちを罪に対して死んだ者だ」と認めておられます。
また、御子にあって「神のために生きている者だ」と認めてくださっています。
なぜなら、御父は、常に「御子イエス」を勘定に入れておられるからです。
私たちも「同じように」しましょう。
日々、イエス様の御業を「勘定に入れて」歩みましょう。
「私は、キリストとともに死にました。ゆえに、キリストとともに生きます」と告白しつつ歩みましょう。
私は罪に対して死にました
私は神に対して生きている者です
イエス様の御業は完全です