No.96 苦みを甘みに変えることを学ぶ

水を飲む犬

出エジプト15:25
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試みた。

試みられたのはモーセです

イスラエルは素晴らし奇跡を見ました。海が分かれて彼らはその真ん中を歩いて渡ったのです。

追ってきたエジプトは海の中に投げ込まれました。彼らは絶大な主の御力を実際に経験したのです。

私たちは、自分も主の絶大な御業を見たい、主の奇跡を実際に経験したいと思います。小さな日常の些細な奇跡ではなく、海が分かれるような通常では考えられない奇跡を体験したいと願います。

もちろん、私もそう願います。主の栄光が現れて、「アズサ・ストリート」のリバイバルのように、その場所に入るだけで聖霊様に倒されてしまうような御業の現れを切望します。

しかし、奇跡を体験したからといって「整えられる」わけではありません。

イスラエルの民は「海を渡った」後、荒野に旅立ちます。三日間、荒野を歩きます。しかし、彼らは飲み水を見つけることができないのです。

出エジプト15:24
民は、モーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

民は、すっかり奇跡の御業を忘れています。確かに「飲み水」がないことは一大事です。奇跡で心が高揚しているときには、なおさら、「目の前のこと」が上手くいかないと「より苦々しさが増す」のです。

しかし、これは民への試練ではなく「モーセ」への試みでした。

出エジプト15:25
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試みた。

モーセは、これから「不平を言う民」を導いて荒野を旅せねばなりません。このとき、どのように対応するかが試みられたのです。

モーセは、民に対応せず「主に叫び」ました。

荒野には困難、苦難がいっぱいあります。身近なところの問題が多く起こります。生活に直結する細かな問題が起こるでしょう。何ら神の国の前進には関係ないような「日常の些細なこと」が「不平の種」となるでしょう。

確かに、荒野は困難の多い場所です。しかし、同時に、神の御業が最も現れる場所でもあります。

荒野の旅で最初に学ぶべきことは、「苦み」を「甘み」に変えることです。

日常の些細なことから「苦々しさ」は発生します。自分の生活に直結するとなると余計に「苦々しさ」は増すでしょう。

また、一緒に歩む「兄弟姉妹」に対して「苦々しさ」を抱いてしまうのは、ほとんどの場合、些細なことが原因です。

たとえば、礼拝の後の食事について「甘いカレーは嫌いだから食べたくない」などと言う理由です(笑)

こんな些細なことが「弱い者を顧みない論争」に発展したときには、もうホトホト嫌になって、私は、あまりにも腹が立って「礼拝後の食事はやめます!」と何回も叫びたくなりました。

このようなことで私の心に「苦々しさ」が満ちていくのです。こんな「些細なしょうもないこと」が私の心を主から離し、兄姉への愛を奪っていくのです。

「苦々しい心」からは「甘い交わり」は生まれません。「苦い水」は飲むことができないのです。私は、まず、自分の心を「苦みから甘み」へ変えなければなりません。

「甘い水」にする唯一の方法は「主が示してくださる一本の木」を投げ込むことです。

そして、主が示してくさる「一本の木」は「十字架」以外にはありません。私たちが投げ込むべき「木」は十字架しかないのです。

私たちが、もし、荒野を旅して「主の御顔・御業」を拝して歩みたいのなら、モーセのようにするべきです。

「不平を言う側」に立ってはいけません。指導者に「不平を言う」のではなく、一緒にひざまずいて「主に叫ぶ」者でありましょう。

私たちは「問題に直面」したならば、皆でひざまずき「主に叫び」ましょう。

十字架を見上げ、心を甘い水で満たしましょう。

そのようにして、困難な荒野の旅を一緒に進んで行きましょう。

私は不平を言いません。
主の御前に叫びます。
どうか十字架により苦々しさを甘みに変えてください。