No,58 主にあって「余りある」のです!

サングラス兄弟

【ヨハネ6:5~6】
イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方にくるのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしてるのかを、知っておられた。

ピリポは試されました

イエス様はピリポを試されました。面白いですね。私はこの場面が大好きです。

ピリポは、頭が良くて、すぐ計算しました。

ヨハネ6:7
ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

「これぐらいの人数だと200デナリでは足りません」とピリポは答えました。

1デナリが一日分の労賃に相当すると欄外注釈に書いてあります。

つまり200デナリだと200日分の労賃分ということです。そのような大金が自分たち一行にあるわけがない、つまりピリポは「主よ、それは無理です」と言っているのです。

ピリポの考え方は普通だと思います。普通の人なら、当然のことです。誰でも「どうやって?」と考えます。

そして計算します。「どうすれば可能だろうか?」と考えます。

そして、ピリポと同じ答えにたどり着くでしょう。

「200デナリ必要だ。これは無理だ。」

しかし、ピリポは「普通の人」として計算してはいけなかったのです。

ピリポは普通の人ではありません。「キリストの弟子」なのです。

「キリストの弟子」には「普通の人」とは違う計算の方法があるのです。

「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか?」とイエス様に問われたなら、こう答えるのです。

「主よ、あなたがご存知です」と。

私たちには「無から有を生じさせる方」がおられます。

「五つのパンと二匹の魚」で5000人を満足させ、なおかつ、「あり余るほど増やせる方」がおられるのです。

「どうやって?」の答えは「主にあって」です。

「キリストの弟子」は、イエス様を計算に入れて考えることができるのです。

「どう考えても無理なこと」に「イエス様を加える」と「勝ち得て余りある」のです。

ローマ8:37
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

主よ、すべてはあなたがご存じです。
私は「主にあって」圧倒的な勝利者です。