詩篇46:3
神はそのただ中におられ その都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。
朝明けまでに助けられる
コラ人たちは、確信をもって「朝明けまでに」と歌っています。
彼らは「神は朝明けまでに これを助けられる」と信じているのです。
私は「助けが来なかったとき」の言い訳として「いつか」という言葉を使います。
「期限を切る」ことに「懐疑的」になるのは「来なかったらどうしよう」という不安を隠すためです。
誰かが「朝明けまでに何とかなるよ」と言ったとしたら…
私は恐らく「何を根拠にそんなことを言うのか」と思うでしょう。
けれど「根拠」とは何でしょう。
「根拠」とは、それが正しいと証明するための「拠り所」のことです。
主こそ、我らの「避け所」「拠り所」です。
つまり私たちの根拠は「主ご自身」なのです。
苦しくて、辛くて、必要が迫っている人に「いつか助けが来るからね」と言うのは簡単です。
しかし、私は「今」助けが欲しいのです。
確かに、祈りの答えが「すぐに」与えられないことがあるのは事実です。忍耐が大切だという教えは真理です。私たちは「待つ」ことを学ばせられることがあります。
しかし、私はそれを「言い訳」に使うのは、もうやめたいのです。
主が「待て」と言われるなら待ちましょう。しかし「助けが来ないかもしれない」と思う不信仰を隠すために「教理で武装すること」は、もうやめたいのです。
主は苦しむとき「そこ」にある助けです。「そこ」とは「すぐそばにある」ということです。
主は、常に「すぐそば」におられます。手を伸ばせば触れることができるほど「近く」におられるのです。
主は、私たちを助けてくださいます。「朝明けまでに」助けてくださいます。
私たちは、毎日、信じようではありませんか。
日々、奇跡を見ることができるのだと期待しようではありませんか。
神は「避け所」であり「力」なのです。
私は、現実の生活の中で「力強い神の御手」が現わされるのを見たいのです。
私たちは、本気で祈りましょう。期待を持って祈りましょう。
「みこころが天で行われているように、地でも行われますように」と祈りましょう。実際、この祈りは非常に攻撃的な祈りです。これは「みこころよ成れ」という宣言です。
天の光が、この地の上に輝き渡ることを期待してもよいのです。
主は助けてくださいます。朝明けまでに。
日々、助けてくださいます。
私たちは、朝毎に新しい奇跡を見ることができるのです。
主よ、不信仰を認めます
私の信仰を純粋なものとしてください
あなたの御力を信じます