ヨシュア8:6
彼らは私たちを追って来るので、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは「この前と同じように、われわれの前を逃げて行く」と言うだろうから、私たちは彼らの前で逃げることにする。
「この前と同じように」と言うだろうから
イスラエルの作戦は「伏兵を置いて挟み打ちにする」ことでした。
イスラエルは、アイに敗北しています。つい先日、敵を侮り、主に伺うこともせず、先走ってアイに攻め入り、返り討ちに会い逃げだしたばかりなのです。
その敗北の背後には「アカンの罪」がありました。一人の罪が共同体に敗北を招いたのです。
主は、イスラエルの罪を取り扱われ、そして、再び「アイに攻め上れ」と命じられました。
一度、敗北した敵に立ち向かうのは、とても勇気が必要です。ヨシュアも、自分を奮い立たせる必要があったことでしょう。
主は言われます。
主が「みこころ」を変えられることはありません。
確かにイスラエルは、一度失敗しました。しかし、カナンの地を占領することは「主の約束」なのです。
主は、必ず、ご自身の約束を成し遂げられます。
ヨシュアたちは、皆で攻め上りました。今度は、作戦を持って攻め上りました。
アイの王は「この前と同じように、われわれの前を逃げて行くだろう」と思いました。彼らは「伏兵」の存在を知らなかったからです。
万軍の主の指揮により、伏兵作戦は見事に決まりました。
イスラエルは、一度敗北したアイに勝利することができたのです。
失敗は「終わり」ではないことを忘れないでください。
私たちの「失敗」が、主の「計画」の邪魔をすることなどできないのです。
アイの王は「この前と同じように」と言いました。
サタンも、私たちに同じようにささやくでしょう。
「無理だ。この前と同じようになるに決まっている」と。
いいえ。決まっていることなどありません。
「伏兵を設けて挟み打ちにする作戦」は、一度「敗北」したからこそ「有効」だったのです。
アイの王が「前と同じようになる」と思い込んだからこそ上手くいったのです。
「もう一度、行きなさい」と主は言われます。
「恐れてはならない。おののいてはならない」と言われます。
私たちの神は「全能の神」です。
そして「すべてのことを働かせて益とされる方」です。
振り返った時、私たちは驚き仰ぎ見るでしょう。
主の御手の中にあって「失敗したことが、かえって良かった」と言うように変えられるからです。
失敗なんて無いほうがいいのです。罪なんて犯さない方がいいのです。
しかし、たとえ「失敗」してしまったとしても「過ち」を犯してしまったとしても、それは決して「終わり」の合図ではありません。
主イエスの血潮によってきよめられるなら、それは「始まり」の合図に変えられます。
恐れないで、おののかないで、奮い立って進みましょう。
すべてのことを働かせることができる方を信じます
失敗をも勝利に変えられる方をほめたたえます
私は恐れず進みます