箴言3:6
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
行く道のすべてにおいてと聖書は言います
「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」と聖書は言います。
以前の新改訳では「主を認めよ」と訳されていました。
私たちは、自分のすべての道において「主を認めよ」「主を知れ」と言われているのです。
すべての道において「主を認める」とはどういうことでしょうか。
十人のツァラトに冒された人たちは、イエス様が言われたとおりに行きました。まだ癒されたわけではないのに、自分の身体を祭司に見せに行ったのです。
彼らの信仰は立派です。彼らは、行く途中できよめられました。彼らのツァラトは癒されたのです。
そのうちの一人が大声で神をほめたたえながら引き返してきました。
なぜ戻って来たのでしょう。
「イエスの足もとにひれ伏して感謝」するためです。
行く道のすべてにおいて「主を認める」「主を知る」とは、まさにこのことです。
私たちは、自分の仕事が順調に進むことを願います。日々、平安に過ごせるように求めます。癒やされるように祈ります。自分の願いを知っていただこうと声を張り上げます。
様々なことを「声を張り上げて」求めますが、それらが上手くいった後はどうでしょう。
「声を張り上げて」求めたときと同じくらいの熱量で「大声をあげて神をほめたたえて」いるでしょうか。
求めたことを得たら、そのまま過ぎ去ってしまうでしょうか。
このサマリヤ人は「イエスの足もとにひれ伏して感謝」するために戻って来たのです。
私たちは、自分のすべての道において「主を認める」ことが必要です。
すべての道において「主を認める」「主を知る」とは、すべてのことについて「感謝」するということです。
「感謝」とは、主の「恵み」を認めることです。すべてのことが「恵み」であると同意することが「感謝」なのです。
十人の人が「信仰」によって「癒し」を得ました。
しかし、戻って来たのは「一人」だけでした。
私たちはみな、信仰によってきよめられました。どうかそのまま通り過ぎていかないでください。
それが「祭司に見せる」という正しい行いのためであったとしても、「きよめ主」が誰であるのかを覚えておかなければなりません。
日々の生活をあわただしく過ぎ行かせてはなりません。
「イエスの足もとにひれ伏して感謝」するために、今、立ち止まりましょう。その時間は無駄にはなりません。
あなたが、主を知るならば、そこに主の御手を認めて感謝をささげるなら、必ず「主があなたの進む道をまっすぐにされる」でしょう。
道に迷ったり、つまずいたりする方が、よっぽど時間の無駄というものです。
私たちが、日々、主の御業を認め、その表明として感謝をささげるため、立ち止まって「ひれ伏す」なら、主は、すべての道をまっすぐにしてくださいます。
私たちは、日々、イエス様の「立ち上がって行きなさい」という言葉を聞いて生きるのです。
すべてが主の御業です
私は、主に感謝します
ひれ伏して感謝します