ダニエル9:23
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。そのみことばを聞き分けて、その幻を理解せよ。
特別に愛されている者よと御使いは言いました
ガブリエルは言います。
「あなたが特別に愛されている者だからだ」
これは、私に「励まし」と同時に少しばかり「ねたみ」を起こさせる言葉です。
私は、イエス様が私のために「いのちを捨てるほど」愛してくださっていることを知っています。しかし、私はもっと「特別に愛される者」になりたいのです。
私は、今、少し、誤解されるかもしれないなという恐れを持ちながら話しています。誤解されたくないけれど、まあ、誤解されてもいいです(笑)
私はダニエルのようになりたいのです。
私は「預言者」になりたいのではありません。私は特に「何者」にもなりたいとは思いません。
けれど、今より、もっと「特別に愛される者」になりたいと切に望んでいます。
私は、とにかくうらやましいのです。主に「特別に愛されている者」と呼ばれるダニエルが。主のみこころを「悟る」ようにと言われるダニエルが。
主には「えこひいき」はありません。あなたも私も「御子をお与えになるほど」愛されています。それは「条件付き」の愛ではありません。
私が主の目には「高価で尊い」ことは真実です。
しかし、主には「特別な友」がいることもまた事実です。
多くの人が生きていたであろう中で「エノク」だけが上げられました。
アブラハムは「神の友」と呼ばれました。
ダビデは、そもそも「愛された者」と言う名前です。
使徒ヨハネは「イエスが愛された弟子」でした。
彼らの共通点をいつか探ってみたいと目論んでおります。
しかし、今は分かる範囲で、ダニエルが愛されている理由を探ってみたいと思います。
「夕方のささげ物を献げるころ」という言葉に注目します。
「夕方のささげ物」とは何でしょう。
祭壇には毎日、常供のささげ物として「朝」と「夕暮れ」に子羊を献げなければなりませんでした。
ダニエルは遠く離れたバビロンの地で「常供のささげ物」を覚えていたのです。もちろん、バビロンの地で「動物のいけにえ」をささげてはいなかったでしょう。
しかし、その代わりに「賛美のいけにえ」を献げていたのではないかと思います。
獅子の穴に放り込まれることを承知で「日に三度ひざまずき感謝をささげていた」と聖書は記しています。
それは、文字通り「犠牲」でした。ダニエルは「自分自身のいのち」よりも「御前での感謝」を選んだということです。
ダニエルが「夕方のささげ物を献げるころ」に、いつも「ひざまずいていた」ことは確かなことでしょう。
それは、ダビデの「ひとつのこと」に通じるものだと私は思います。
つまるところ、「主の麗しさを慕い求める人」「主ご自身を切に仰ぎ見る人」の思いに、主は答えてくださるのではないでしょうか。
主の臨在のある神殿から遠く離されても、常に「主を慕い求め続けるダニエル」を、主は顧みられたということではないかと思うのです。
愛する兄弟姉妹。
主を愛しましょう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しましょう。主は、必ず、私たちの愛に答えてくださいます。
私は、主を愛します
主を慕い求めます
どんな時でも、主を仰ぐことを求めさせてください