No.223 私も特別に愛されている者と呼ばれたいのです

バラは特別

ダニエル9:23
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出されたので、私はそれを伝えに来た。あなたが特別に愛されている者だからだ。そのみことばを聞き分けて、その幻を理解せよ。

特別に愛されている者よと御使いは言いました

ガブリエルは言います。

「あなたが特別に愛されている者だからだ」

これは、私に「励まし」と同時に少しばかり「ねたみ」を起こさせる言葉です。

私は、イエス様が私のために「いのちを捨てるほど」愛してくださっていることを知っています。しかし、私はもっと「特別に愛される者」になりたいのです。

私は、今、少し、誤解されるかもしれないなという恐れを持ちながら話しています。誤解されたくないけれど、まあ、誤解されてもいいです(笑)

私はダニエルのようになりたいのです。

私は「預言者」になりたいのではありません。私は特に「何者」にもなりたいとは思いません。

けれど、今より、もっと「特別に愛される者」になりたいと切に望んでいます。

私は、とにかくうらやましいのです。主に「特別に愛されている者」と呼ばれるダニエルが。主のみこころを「悟る」ようにと言われるダニエルが。

主には「えこひいき」はありません。あなたも私も「御子をお与えになるほど」愛されています。それは「条件付き」の愛ではありません。

私が主の目には「高価で尊い」ことは真実です。

しかし、主には「特別な友」がいることもまた事実です。

多くの人が生きていたであろう中で「エノク」だけが上げられました。

アブラハムは「神の友」と呼ばれました。

ダビデは、そもそも「愛された者」と言う名前です。

使徒ヨハネは「イエスが愛された弟子」でした。

彼らの共通点をいつか探ってみたいと目論んでおります。

しかし、今は分かる範囲で、ダニエルが愛されている理由を探ってみたいと思います。

ダニエル9:21
すなわち、私がまだ祈りの中で語っていたとき、私が初めに幻の中で見たあの人ガブリエルが、すばやく飛んで来てわたしに近づいた。それは夕方のささげ物を献げるころであった。

「夕方のささげ物を献げるころ」という言葉に注目します。

「夕方のささげ物」とは何でしょう。

民数記28:4
一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れの献げなければならない。

祭壇には毎日、常供のささげ物として「朝」と「夕暮れ」に子羊を献げなければなりませんでした。

ダニエルは遠く離れたバビロンの地で「常供のささげ物」を覚えていたのです。もちろん、バビロンの地で「動物のいけにえ」をささげてはいなかったでしょう。

しかし、その代わりに「賛美のいけにえ」を献げていたのではないかと思います。

獅子の穴に放り込まれることを承知で「日に三度ひざまずき感謝をささげていた」と聖書は記しています。

それは、文字通り「犠牲」でした。ダニエルは「自分自身のいのち」よりも「御前での感謝」を選んだということです。

ダニエルが「夕方のささげ物を献げるころ」に、いつも「ひざまずいていた」ことは確かなことでしょう。

それは、ダビデの「ひとつのこと」に通じるものだと私は思います。

詩篇27:4
ひとつのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに 目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

つまるところ、「主の麗しさを慕い求める人」「主ご自身を切に仰ぎ見る人」の思いに、主は答えてくださるのではないでしょうか。

主の臨在のある神殿から遠く離されても、常に「主を慕い求め続けるダニエル」を、主は顧みられたということではないかと思うのです。

愛する兄弟姉妹。

主を愛しましょう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しましょう。主は、必ず、私たちの愛に答えてくださいます。

私は、主を愛します
主を慕い求めます
どんな時でも、主を仰ぐことを求めさせてください