ローマ1:6~7
その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。
私たちはイエス・キリストのものです
パウロはローマの教会の人たちを「神に愛され、召された聖徒たち」と呼んでいます。
「聖徒」とは「神のために特別に取り分けられた者」という意味です。
「召された」とは「呼び寄せられた」「招かれた」とも訳せます。
私たちは「神のために特別に取り分けられる」ために「呼び寄せられた」のです。
それは、なぜでしょう。
あなたはなぜ「呼び寄せられた」のでしょう。
なぜ「特別に取り分けられた」のでしょう。
それは「神に愛され」たからです。
パウロは短い節の中に大変重要な情報をこれでもかと詰め込んでいますね。私は、この一節が大好きです。
私は「神に愛され召された聖徒」なのです。
私たちは「神から見た自分」に自信をもたなければなりません。
「こんな自分が召されるなんてありえない」
「召しとは特別な所に遣わされる人に対する言葉だ」
多くの聖徒がそのように言います。自分は「献身者ではない」と多くの人が言います。
では、あなたは「呼び寄せられて」はいないのですか?
あなたは「イエス・キリストのもの」ではないのですか?
あなたは「聖徒」ではありませんか?
聖徒はみな「召されて」います。「呼び寄せられて」いなければ「聖徒」ではないのです。
「聖徒」であるために必要なのは「神に愛された」ということだけです。
選びの決定は「神」がなされました。主は、世界の基の据えられる前に、あなたを「呼び寄せよう」とお決めになりました。
「呼び寄せる」ということは、その前には「別のところ」にいたということです。
私たちは「空中の権威を持つ支配者」の下にいました。「この世の君」と呼ばれる者の配下にいたのです。
しかし、主が「永遠の昔からの定め」に従って、私たちを「呼び寄せて」くださったのです。
主は、聖書によって「愛を明らかに」示しておられます。
こんなに何回も何回も「あなたを愛している」と繰り返しておられるのに、私はいつまでそれを疑い続けるのでしょう。
主の愛が迫って来ませんか?
あなたは「神の愛のゆえに召された聖徒」です。「神が愛されたので呼び寄せられた者」です。
「神のために特別に取り分けられた者」です。聖徒は「イエス・キリストのもの」となりました。
「この世」から「呼び寄せられた」のです。世に属するならば「聖徒」ではありません。
あなたが「呼び寄せられた」のは、主があなたを愛されたからです。そして「特別に取り分けた」のは、あなたに「召命」があるからです。
聖徒はみな「召されて」います。あなたには、何か成すべきことがあります。それは必ずあります。
主は、目的を持って「召され」ました。
自分を聖徒だと思うならば「召し」に応えなさい。あなたが「特別に取り分けられた」ことを信じなさい。
「主よ、私はあなたのものです。特別に取り分けられたことを信じます。御心を成し遂げてください」
あなたが、そのように祈るなら、主の栄光の目的は動き出します。
主は呼び寄せられます。しかし、あなたが「完全」に応えるまで、用意されている栄光を見ることはできません。
主は、手を伸べておられます。あとは、あなたが手を伸ばすだけです。
私は神に愛され召された聖徒です
私は「神のために特別に取り分けられた者」です
主の永遠の昔からのご計画が私の上に成りますように