ガラテヤ6:8
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
重要なのは「どこに」蒔くのかです
イエス様は「ある金持ちのたとえ」を語られました。
豊作で浮かれた金持ちは言ったのです。
この金持ちは、多くの作物を貯めることができました。
「さあ、休め」と言っていますから、一生懸命に働いて苦労して作物を育てたのかもしれません。
不正を働いたわけでもなく、人の物を盗んだわけでもありません。
しかし、主は言われます。
主は、この金持ちを「愚か者」と呼ばれます。
それは、彼が「金持ち」だからではありません。作物を貯めこんだからでもありません。(結果としてはそうとも言えますが)食べて楽しむことが罪なのでもありません。根本的な原因は、そこではないのです。
彼の根本的な問題は「神のこと」をまったく考えなかったことです。
「自分のため」に蒔くならば、「この世」はそれなりの収穫を生じさせてくれるでしょう。頑張って働けば「金持ち」になることも可能なのです。しかし、それは決して「祝福」ではありません。
「自分の肉」のために蒔き続けるならば、最終的に刈り取るのは「滅び」です。
多くの人は、自分のために「愛」を搔き集めます。「親切」や「善意」を期待します。他人が自分に対して「誠実」であることを求めます。
しかし、多くの人は与えられた「愛」を蒔こうとはしません。それを蓄えるのです。
自分のために蓄えるならば、私は「愚か者」です。
しかし、もし私が与えられたものを「御霊」に蒔くならば「御霊」から刈り取ります。
与えられた「愛」を蒔くならば、私は御霊の実である「愛」を実らせることができます。
人に「親切」や「善意」を期待せずに蒔きなさい。そうすれば、あなたは御霊の実である「親切」「善意」を収穫できます。
人は、あなたの「誠実」を踏みにじるかも知れません。しかし、主はあなたを決して裏切ることのない誠実な方です。
私たちは「蓄える」必要はありません。神の川は、絶えず流れています。私たちは、日々、十分に豊かな流れによって満たされることができます。
豊かさもまた然りです。
生きていくために必要なものは、主が必ず与えてくださいます。ですから「金銭を追い求める」必要はありません。
私たちは「持っていないように見えても、すべてを持っている」のです。
私たちは「神のこと」を思って歩みましょう。「倉」をいっぱいにするために生きてはなりません。
「自分の肉」のために蒔くのは愚か者です。
私たちは「天」に蒔きましょう。御霊に蒔く者でありましょう。
私たちが刈り取るのは「永遠のいのち」です。それも「豊かないのち」です。
主よ、私は御霊に蒔きます
自分のためには蒔きません
豊かないのちに生かしてください