No.340 私は御霊に蒔きます

美しい広がり

ガラテヤ6:8
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

重要なのは「どこに」蒔くのかです

イエス様は「ある金持ちのたとえ」を語られました。

豊作で浮かれた金持ちは言ったのです。

ルカ12:19
そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱいものがためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

この金持ちは、多くの作物を貯めることができました。

「さあ、休め」と言っていますから、一生懸命に働いて苦労して作物を育てたのかもしれません。

不正を働いたわけでもなく、人の物を盗んだわけでもありません。

しかし、主は言われます。

ルカ12:20
しかし、神は彼に言われた。「愚か者め、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去れる。おまえが用意した者は、いったいだれのものになるのか。」

主は、この金持ちを「愚か者」と呼ばれます。

それは、彼が「金持ち」だからではありません。作物を貯めこんだからでもありません。(結果としてはそうとも言えますが)食べて楽しむことが罪なのでもありません。根本的な原因は、そこではないのです。

ルカ12:21
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。

彼の根本的な問題は「神のこと」をまったく考えなかったことです。

「自分のため」に蒔くならば、「この世」はそれなりの収穫を生じさせてくれるでしょう。頑張って働けば「金持ち」になることも可能なのです。しかし、それは決して「祝福」ではありません。

ガラテヤ6:8
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

「自分の肉」のために蒔き続けるならば、最終的に刈り取るのは「滅び」です。

多くの人は、自分のために「愛」を搔き集めます。「親切」や「善意」を期待します。他人が自分に対して「誠実」であることを求めます。

しかし、多くの人は与えられた「愛」を蒔こうとはしません。それを蓄えるのです。

自分のために蓄えるならば、私は「愚か者」です。

しかし、もし私が与えられたものを「御霊」に蒔くならば「御霊」から刈り取ります。

与えられた「愛」を蒔くならば、私は御霊の実である「愛」を実らせることができます。

人に「親切」や「善意」を期待せずに蒔きなさい。そうすれば、あなたは御霊の実である「親切」「善意」を収穫できます。

人は、あなたの「誠実」を踏みにじるかも知れません。しかし、主はあなたを決して裏切ることのない誠実な方です。

私たちは「蓄える」必要はありません。神の川は、絶えず流れています。私たちは、日々、十分に豊かな流れによって満たされることができます。

豊かさもまた然りです。

生きていくために必要なものは、主が必ず与えてくださいます。ですから「金銭を追い求める」必要はありません。

私たちは「持っていないように見えても、すべてを持っている」のです。

私たちは「神のこと」を思って歩みましょう。「倉」をいっぱいにするために生きてはなりません。

「自分の肉」のために蒔くのは愚か者です。

私たちは「天」に蒔きましょう。御霊に蒔く者でありましょう。

ガラテヤ6:9
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

私たちが刈り取るのは「永遠のいのち」です。それも「豊かないのち」です。

主よ、私は御霊に蒔きます
自分のためには蒔きません
豊かないのちに生かしてください