詩篇107:43
知恵のある者はだれか。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ。
見極めよと言われます
「主の数々の恵みを見極めよ」と言われます。
「見極めよ」とは、以前の新改訳では「悟れ」と訳されていました。新共同訳では「目を注ぐがよい」と訳されています。「識別せよ」と訳すこともできます。
「数々の恵み」があるのです。そして、その恵みは「日々」注がれているのです。
けれど、私は、なかなか「数々の恵み」を見極めることができないようです。
「知恵のある者」には「恵みを見極めること」ができます。
「知恵のある」とは「洞察力のある」という意味ですが「技量がある」と訳すこともできます。
「技量」というのは「物事を行う腕前」「持っている技術の度合い」のことです。つまり「スキル」のことです。
面白いですね。「恵みを見極める」には「技量」「スキル」が必要なのです。私たちは「熟練」を目指す必要があるのです。
詩人は「知恵のある者」は「これらのことに心を留めよ」と言っています。
「これらのこと」とは何でしょう。その前の節を読んでみると分かります。
「これらのこと」とは「高くするのも低くするのも、主の御手にある」ということです。
「今」見えるところはすべてではありません。「人の歩みは主によって確かにされる」ということです。
このことに「目を留める」ならば、私たちは「熟練した見極め師」になることができます。
ハンナは「熟練した見極め師」でした。ハンナの祈りには「知恵」が満ちています。
苦しみ、悲しみを「主に注ぎだし」ハンナはこのことを悟りました。主にすべてを「注ぎだす」ことによって、私たちは「熟練」していくのです。
私たちに「すべて」はわかりません。「今」が「この先」どのように変わるのかを知ることはできません。ですから「黙って」いましょう。
「このこと」に目を留め続けましょう。主が「高く」され、また主が「低く」されるのです。
私たちは、ただ「主の力強い御手の下にへりくだって」いましょう。
そうすれば「熟練した見極め師」になれます。
「主の御手の下」からすべてを見るならば「数々の恵み」を見極めることができるようになります。
あなたは「予期せぬ所」で「思っても見なかった時」に、恵みを発見できるようになります。
あなたが日々「数々の恵み」を見出すことができますように。
主よ、恵みを見極めさせてください
主の御手の下にへりくだります
主の恵みを感謝します

