ガラテヤ2:20
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
それは目標ではありません
パウロは言います。もはや「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と。そして、このことは「キリスト者の基準の啓示」であるとウォッチマン・ニーは言っています。
パウロはここで、何か特別に高度なキリスト教を述べようとしているのではなく、むしろ、神がキリスト者に求めておられる基準を啓示していると信じます。すなわちそれは「生きているのはもはや私ではなく、キリストが御自身の命を私のうちに生かしめていいるという言葉に要約できます。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社
ともすれば、私たちは、主に「すべてを献げること」や「私は死んで、今キリストが内に生きておられる」ということを目標とかゴールだと考えてしまいます。
しかし、パウロはそれを目指しましょうとは言っていません。
「キリストが私のうちに生きておられる」と言っているのです。つまり、今、すでに「私のうちに生きておられる」ということです。
「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」とは「目標」ではなく「状態」です。
「イエスを主と告白する者」はみな、「もはや私が生きているのではない」という状態にあるのです。
告白とは、いつも言う通り「その通りです」と同意することです。
私たちは日々、同意しましょう。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白しましょう。
それは「目標」ではありません。あなたは、すでに「その状態」にあるのです。
それは「ゴール」ではありません。むしろ「スタート」です。その状態からすべてが始まるのです。
私たちが、そのことに同意して歩むなら、主は私たちのうちに生きてくださいます。そして、必ず御力を現してくださいます。
もはや私が生きているのではないことを告白します。
私のうちにはキリストが生きておられます。
主の御力が私を通して現れます。