Ⅰコリント3:3
あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
肉の人は、ただの人です
パウロは言います。「肉の人」とは「ただの人」であると。「ただの人」とは文字通りの意味です。「普通の人間」であるということです。
面白い言い方ですね。
コリントの人々は「肉の人」であり「ただの人」でした。そのような人は「キリストにある幼子」だとパウロは言っています。
つまり「ただの人」とは「キリストにあって成長していない人」のことを言うのです。「キリストにある幼子」なのです。
「幼子」は「固い食物」を食べることができません。食べたくても「無理」なのです。
パウロは、本当ならば、コリントの人々に「固い食物」を与えたいと望んでいたのでしょう。しかし、彼らには「まだ無理」であったのです。
「肉の人」「ただの人」で居続ける限り、私たちは決して「固い食物」を味わうことはできません。
「固い食物」は「大人の食べ物」です。
主は、私たちと「大人の会食」をしたいと望んでおられます。食卓を囲んで「会話」を楽しみたいと望まれるのです。「乳」だけを「飲ませてもらっている幼子」と「会話」を成り立たせることはできません。
主は「キリストにある幼子」を愛されます。しかし、成長して食卓を囲む「友」には、主の「心のうち」を語ってくださるでしょう。
キリストの「友」となることを心から求めたいのです。
そのためには「ただの人」から脱皮しなければなりません。
「肉の人」「ただの人」の特徴は「そねみ」と「争い」です。もし、私のうちに「そねみ」があるなら、私は「ただの人」です。私たちの間に「争い」があるならば、私たちは「肉の人」です。
外見をいくら取り繕っても、どれだけ聖書を語っていても、人は「実」によって判断されます。
「そねみ」と「争い」の実を結んでいるならば、それは、私が「肉の人」「ただの人」である明らかな証拠です。私は、自分に正直に向き合いたいと切に願います。私は「ただの人」ではなく「御霊に属する人」として歩みたいのです。
主の友となり、固い食物を食べたいと願うなら、まず「そねみ」と「争い」を悔い改めることです。
私は「そねみ」と「争い」を悔い改めます
言い訳と妥協を打ち砕きます
主よ、あなたと食卓を囲む幸いを与えてください