【ヨハネ12:24】
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
一粒の麦とは
もちろんイエス様ご自身のことです。
イエス様は、私たちのために「地に落ちた一粒の麦」となって死んでくださいました。
そしてまた「一粒の麦」とは私たち自身のことでもあります。
主に仕える者は、主について行きます。主がなさることを私たちもします。私たちは「一粒の麦(自分のいのち)」を握りしめておくこともできます。
大切に、大切に、手の平で転がして、ずっと愛でておくこともできます。
しかし、蒔かなければ、どんなに愛していても、それは一粒のままです。「地に落ちて死ななければ」などと言われると少し怖くなります。確かにそれは容易なことではありません。
イエス様は、十字架に架けられる前、ゲッセマネの園で祈られました。
「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」と書いてあります。
イエス様は、苦しんでくださいました。「苦しみもだえて祈る」ということを経験してくださいました。
イエス様は、私たちと同じようにすべてを経験してくださいました。「死ぬ」ということに関してイエス様以上の経験をする人はいないでしょう。
イエス様は「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と言われました。
イエス様は、すべて御父に委ねられ、それから十字架へと向かわれました。この時にすでに死んでおられたと言えるかもしれません。
「地に落ちて死ぬ」とは、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と言うことです。
あなたが握りしめている「一粒の麦」は何ですか?
それが実際に何であるかは、人それぞれかもしれません。けれど、それらを一言で言い表すとすれば「自分のいのち」と呼べるでしょう。
あなたの握りしめている一粒の麦を地に蒔いてください。
土がかぶせられ、踏み固められると、苦しい思いをするでしょう。心は痛みます。辛くて、どうしようもなくなるでしょう。このまますべてが終わってしまうのではと思うかもしれません。一生、土の中にいるように感じるかもしれません。
けれど、時は来ます。主は、熟練の農夫です。育苗に失敗することは決してありません。
時が来れば、必ず、必ず豊かに実を結びます。
私は「一粒の麦」を蒔きます。
私の願いをお委ねします。
みこころがなりますように。