No.330 主よ、私は叫びます。歌います。賛美します。

目を上げよ

詩篇106:44
それでも、彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められた。

主が目を留めてくださいます

イスラエルは、何度もつまずきました。

詩篇106:43
主は幾たびとなく彼らを救い出されたが 彼らは相計らって逆らい 自分たちの不義の中におぼれた。

主は何度もイスラエルを救われました。しかし、彼らは何度も、主に逆らいました。イスラエルが溺れて沈みそうなのは「自分の不義のせい」なのです。

しかし「それでも」と詩人は言います。

詩篇106:44
それでも、彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められた。

イスラエルは苦しみの中で「主に叫び」ました。

ここで「叫び」と訳されている語は、ヘブル語で「リナー」です。

あるイスラエル人が言っていました。「リナは、ヘブル語でHappy(ハッピー)の意味ですよ」と。それは、おそらく、分かりやすいように教えてくれたのだと思います。

実際は、もう少し「意味深い語」のようです。

この語は非常に興味深い。「リナー」は、実は単なる叫びではなく「歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び」を意味する。~中略~
リナ―は「感謝」を表す語に劣らない程に、意味深い語なのである。
祈りの糧ディボーション 真殿輝子著 一粒社

主は、イスラエルの「歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び」を聞かれて、彼らの苦しみに目を留められたのです。

「叫び」と聞くと「嘆き」「うめき」「嘆願」などと思ってしまいます。

しかし、このときイスラエルのある人々が、主に向かって「歌」を歌ったと解釈しても間違いではないようです。

愛する兄弟姉妹。

賛美には「力」があります。私は、そう信じています。

たとえ、自分の「不義」のせいで苦難に陥ったのだとしても、主に向かって「歌声」をあげましょう。

「もうだめだ。何度も裏切ってしまった」

「もう助けてはもらえない。ただ嘆いて、下を向いて歩くしかない」

そのように感じていたとしてもです。

確かに「悔い改め」は必要です。罪は「言い表す」ことによって赦されます。

しかし、罪を犯してしまったから「助けてもらえない」ということはないのです。

あなたの今の苦しみが「自分の過去の罪の結果」であったとしても、それだからと言って「助けてもらえない」ことはないのです。

サタンは「自分の責任は自分で取れ」と言います。「自分で蒔いた種だろう。自分で刈り取るべきだよね」と言います。そして、私たちは、身に覚えがあるので「さもあらん」と納得してしまいます。

どうか覚えてください。サタンは御言葉を使うのです。私たちより上手く使うこともできるのです。

主は、私たちの「すべての罪」を背負われました。過去の罪も、未来の罪も背負われました。あなたの「今」犯した罪も贖い済みなのです。

ですから、どのような種類の苦しみであったとしても、私たちは「主の助け」を期待してよいのです。

それが「恵み」のうちを生きるということです。私たちは「恵みのゆえに信仰によって」救われたのです。

主の恵みを「歌い」ましょう。主の救いを賛美しましょう。

苦しみの中でも「恵み深い主」を覚えて賛美をささげましょう。

主は、必ず「あなたの苦しみに目を留め」てくださいます。

主は、あなたの「リナ―(歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び)」に目を留めてくださるのです。

詩篇106:45
主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし 豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた。

主は、必ず「豊かな恵み」にしたがってあわれんでくださると信じます。

主よ、私はあなたに「叫び(リナー)」ます
主よ、私は賛美します
主よ、私に目を注いでください