詩篇106:44
それでも、彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められた。
主が目を留めてくださいます
イスラエルは、何度もつまずきました。
主は何度もイスラエルを救われました。しかし、彼らは何度も、主に逆らいました。イスラエルが溺れて沈みそうなのは「自分の不義のせい」なのです。
しかし「それでも」と詩人は言います。
イスラエルは苦しみの中で「主に叫び」ました。
ここで「叫び」と訳されている語は、ヘブル語で「リナー」です。
あるイスラエル人が言っていました。「リナは、ヘブル語でHappy(ハッピー)の意味ですよ」と。それは、おそらく、分かりやすいように教えてくれたのだと思います。
実際は、もう少し「意味深い語」のようです。
この語は非常に興味深い。「リナー」は、実は単なる叫びではなく「歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び」を意味する。~中略~
リナ―は「感謝」を表す語に劣らない程に、意味深い語なのである。
祈りの糧ディボーション 真殿輝子著 一粒社
主は、イスラエルの「歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び」を聞かれて、彼らの苦しみに目を留められたのです。
「叫び」と聞くと「嘆き」「うめき」「嘆願」などと思ってしまいます。
しかし、このときイスラエルのある人々が、主に向かって「歌」を歌ったと解釈しても間違いではないようです。
愛する兄弟姉妹。
賛美には「力」があります。私は、そう信じています。
たとえ、自分の「不義」のせいで苦難に陥ったのだとしても、主に向かって「歌声」をあげましょう。
「もうだめだ。何度も裏切ってしまった」
「もう助けてはもらえない。ただ嘆いて、下を向いて歩くしかない」
そのように感じていたとしてもです。
確かに「悔い改め」は必要です。罪は「言い表す」ことによって赦されます。
しかし、罪を犯してしまったから「助けてもらえない」ということはないのです。
あなたの今の苦しみが「自分の過去の罪の結果」であったとしても、それだからと言って「助けてもらえない」ことはないのです。
サタンは「自分の責任は自分で取れ」と言います。「自分で蒔いた種だろう。自分で刈り取るべきだよね」と言います。そして、私たちは、身に覚えがあるので「さもあらん」と納得してしまいます。
どうか覚えてください。サタンは御言葉を使うのです。私たちより上手く使うこともできるのです。
主は、私たちの「すべての罪」を背負われました。過去の罪も、未来の罪も背負われました。あなたの「今」犯した罪も贖い済みなのです。
ですから、どのような種類の苦しみであったとしても、私たちは「主の助け」を期待してよいのです。
それが「恵み」のうちを生きるということです。私たちは「恵みのゆえに信仰によって」救われたのです。
主の恵みを「歌い」ましょう。主の救いを賛美しましょう。
苦しみの中でも「恵み深い主」を覚えて賛美をささげましょう。
主は、必ず「あなたの苦しみに目を留め」てくださいます。
主は、あなたの「リナ―(歌、歌声、喜びと勝利の声、鳴り響く叫び)」に目を留めてくださるのです。
主は、必ず「豊かな恵み」にしたがってあわれんでくださると信じます。
主よ、私はあなたに「叫び(リナー)」ます
主よ、私は賛美します
主よ、私に目を注いでください