【詩篇23:1】
主は、私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は羊飼いです。
主が羊の世話をされるとは偉大な真理です。「主は私の羊飼い」とダビデが言う時、ダビデの目は羊飼いを見ています。牧場の中に頼もしく立っている羊飼いを見上げています。
確かに私たちは羊です。
それも主の羊です。
その認識は大切です。また必要です。
しかし、この詩篇においてダビデは「私は主の羊です」とは歌っていません。ダビデは、「主は私の羊飼い」と言っているのです。「主こそ羊飼い」なのだといっているのです。ですから、これは羊の歌ではなく羊飼いの歌と言えるかもしれません。
主が「羊飼い」であるとは、なんとも深遠な真理です。
全能なる神様が、私たちの羊飼いなのです。何一つ不可能はないと言われる方が羊飼いなのです。天と地を創造し万物を保っておられる方が羊の世話をすると言われるのです。
主が自ら「羊の世話係」であるとおっしゃってくださったのです。
ダビデも羊飼いでした
ダビデは自分も羊飼いでしたから羊飼いの仕事がどんなものなのか詳しく知っています。彼自身良い牧者であったことは確かでしょう。
ダビデは自分の羊を命がけで守ったと言っています。獣が羊を取って行くと追いかけていって取り戻し、獅子からでも熊からでも取り戻したと。そして主は、自分のことも同じように救い出してくださると信じているのです。熊や獅子から救い出してくださったのは、主であるとダビデは言っています。
王様になる前からダビデの心には主に対する信頼が見られます。主が羊飼いであると、この時から信じて信頼していたのでしょう。主はダビデの信頼に答えてくださいます。この後、少年ダビデによってゴリヤテは簡単に倒されてしまいます。
イエス様は良い羊飼いです
ダビデが自分の羊を命がけで守ったように、良き羊飼いであるイエス様は、命をかけて私たちを救ってくださいました。
イエス様は、本当の良い牧者です。常に羊のことを気にかけてくださる良い羊飼いです。
悪い牧者について神様は、こう言及しておられます。
羊がさまよっても、取りさられても、連れ戻すことがありません。失われた羊を捜すようなことはしないのです。
羊飼いである主は、自分で「捜し求め、捜し出す」と言われます。第三版の新改訳では、「捜し出し、世話をする」と書かれています。
主は、失われた羊を捜し出されます。
何のためにでしょう?
もちろん世話をするためです。
連れ戻すのは介抱し、力づけるためです。主が羊を自分の元に連れ戻すのは養うためです。なぜならイエス様こそ真の羊飼いだからです。
主は、失われてさまよっている羊を捜し、見つけ出し、救うために来られたのです。
捜し出し、覆ってくださいました
思えば創世の初めから主なる神はずっと人を捜してくださっています。
主は、恐れと恥で身を隠していたアダムに呼びかけられます。
「アダムよ。あなたはどこにいるのか」
イチジクの葉で身を覆ったアダムの姿に、主は心を痛められたでしょう。人の手段などその程度のものです。主は何のためにアダムに呼びかけられたのでしょう。もちろん彼を見つけて覆うためです。
皮の衣で彼らを覆って下さったのです。イチジクの葉よりずっといいですね。
けれど主は、アダムとエバを覆うために犠牲を払われました。何らかの動物(羊ではないかと言われています)を彼らのために犠牲にしたのです。そうしなければ、皮の衣を作ることはできません。
イエス様は私たちのために十字架で犠牲を払ってくださいました。イエス様は私たちを覆ってくださったのです。
私たちはキリストを着たのです。主は私たちに御自身の命を与えてくださいました。私たちは見つけ出され、癒され平安を得ました。
主は名前を呼ばれます
私たちは羊のようにさまよっていました。目の悪い羊は(羊は皆、近眼だそうです)一度離れたら自分で群れに戻ってくることはできません。自分勝手な道を行く羊は、延々とさまよい続けるだけです。
しかし主は、私たちを探し見つけ出してくださいました。主は私たち一人一人の名前を呼ばれます。
主は私の名を呼ばれます。なぜなら私は主のものだからです。主はご自身の羊を知っておられます。
主は、私たちを知っておられます。そして私たちが主の羊であるならば私たちも主を知っているのです。
羊である私たちは主の声を聴き分けることができます。そして主の後に付いて行くことができるのです。「主は私の羊飼い」と告白するものは、主の声を聞き分けその後を付いて行かなければならないのです。
誰が主であるのか。
誰が導き手であるのか。
私は誰の導きで歩んでいるのか。
自分で自分を導いているなら、私は主の声を聞いていません。自分の心に自分が居座っているのなら、私は主を「わたしの羊飼い」と呼ぶことはできません。
覚えてください。主が守られるのは、ご自分の羊であるということを。
イエス様を信じない人は、主の羊ではありません。イエス様を信じる人は、主の声を聞き分けます。聞き分けるとは、ほかの羊飼いが呼んでも付いて行かないということです。イエス様の羊はイエス様にだけ付いて行くのです。
呼ばれてもついて行かないならそれは聞き分けていないということです。主の羊は主に従うのです。信じるとはそういうことです。
永遠の命はイエス様を信じる者に与えられます。そして、誰も私たちを主から奪い去れるものはいないのです。
主は、ご自身についてくるものを、「すべてにまさって大切です」と言われるのです。主の羊は主が守られます。誰も何も主の御手から私たちを奪うことはできません。しかし私たちが自分で自分を導こうとするならば、自分で羊飼いの役目を担うというのら話は別です。私たちは自分の思うままの道を行くことができます。しかし、その場合、私たちは自分で自分を世話し守らなければならないでしょう。
主は「極み」まで愛されます
さて、もうすぐ世を去ろうとしておられるイエス様は、最後の最後まで弟子たちを愛されました。「最後まで」とは、「極みまで」とも訳せます。「極みまで」主は、弟子たちを愛されたのです。
そして、その愛を明らかにしてくださったのです。
イエス様は、弟子たちの一人一人の足を洗い始められました。弟子たちはびっくりしたでしょうね。イエス様は、最後まで弟子たちの世話をされました。しもべの役割をにない膝をつき、一人一人の足を洗われたのです。全能の神である方が、万物を保たれる方が、膝をつき足を洗ってくださったのです。主は、愛してくださるのです。主は与えてくださるのです。惜しみなく極みまで。
主は神であられるのに、そのあり方を捨てることができないとは考えられなかったのです。主は、ご自分のあり方に固執されなかったのです。それを捨てることができると思われたのです。
弟子たちは、誰もしもべの役割を担おうとはしませんでした。それはしもべのやることであって、自分の役目ではないと考えたからです。けれどイエス様は常にご自身のあり方を捨てることがおできになるのです。神であるのにそのあり方を捨て人となられ、師と呼ばれるお立場なのにそのあり方を捨てしもべの役割を担ってくださいました。私たちの羊飼いはこのような方なのです。愛する者の為にはご自身の在り方さえ捨てることも厭われないというお方なのです。
良い牧者であるイエス様は、本当に羊のために命を捨てられたのです。
私たちは私たちの羊飼いを見上げます。この方が我ら羊を手に入れるために、どれほどの代価を払われたのかを考えます。主は、言われます。「あなたはすべてにまさって大切だ」と。イエス様は、私たちのために十字架を忍ばれたのです。愛は明らかにされました。主はあなたの名を呼ばれます。
そして言われます。
「わたしはあなたの名を呼んだ」
「あなたは私のもの」
主があなたの名を呼ばれます。
羊飼いが呼んでいるのです。
あなたはどうしますか。
私たちは、羊飼いの呼ぶ声に反応しなければなりません。羊飼いの後ろに付いてどこへでもゆかねばなりません。
緑のまきばへも、憩いのみぎわにもついて行きます。たとえ死の影の谷を行くことがあっても、それでも従います。
なぜなら主が私の羊飼いだからです。
主が私の名を呼ばれるからです。
私たちは主のもの。
そのまきばの羊です。
さあ、一緒に告白しましょう。
「あなたは私の羊飼いです」
「私はあなたの声に聞き従います」
主の手にひかれて
いずくへなりとも
み旨のまにまに
日々従いゆかなん
(聖歌502番)
大丈夫です。主にすべてをお任せしましょう。何があったとしても主の羊は主が守られるのです。自分や周りを見るのはやめましょう。私たちは常に羊飼いだけを見つめて歩むのです