【ヨハネ11:39】
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
もしここにいてくださったなら
ラザロが病に伏せっている間に、イエス様がここにきてくださっていたら。マルタは、そう思っていたのです。
それだけでなく素晴らしい信仰の告白もしました。
「しかし、今でも」とマルタは言います。素晴らしい信仰です。けれどもマルタは、イエス様が「石を取りのけなさい」と言われたとき躊躇してしまうのです。
「主よ、取りのけないほうが無難です。腐敗が始まっているでしょうから」
私は、時々、自分はマルタのようだなと感じます。素晴らしく信仰的な告白をした次の瞬間、「もう遅い、もう無理だ」と思ってしまうのです。
主が「あなたの心の石を取りのけなさい」と言われるとマルタと同じように躊躇してしまうのです。
あなたは、どうでしょう?
「主よ、もう少し前に言ってくださっていたら、私は献身する用意ができていたのです。しかし、今は、もう無理です。ご存知でしょう。前とは状況が違うのです」
「主よ、あなたがくださった夢は成りませんでした。あのとき、あなたがいてくださったなら、私の夢は死なずにすんだでしょう」
「遅すぎます。今はもう、私には何もありません」
「もう無理です。石を取りのけても腐敗した夢の残骸がでてくるだけです」
あなたがどう感じていようと、主が与えてくださったものは無くなることはありません。
イエス様を信じる者は生きるのです。そしてそれは「豊かないのち」です。イキイキと輝く、力に満ちたいのちです。
覚えてください。
主は、栄光を現わしてくださいます。しかし、石を取りのけるのは私たちの役目であることを。
石を取りのけたら何がでてくるのだろうと私たちは心配します。
主に、すべてを献げて従ったらどのような問題が起きるだろうと考えます。
心の中に沈めた「憎しみ」「悲しみ」「恨み」がよみがえるかもしれません。
あのとき、主が介入してくださらなかったのはナゼだろうと疑問も生じるかもしれません。
反対にあったり、経済的な不安に支配されたりするかもしれません。
また同じ失敗を繰り返すのではと恐ろしく思うかもしれません。
それでも「石を取りのけなさい」と主は言われます。
あなたを「完全に主のもの」とすることを妨げているものは何ですか。「もう無理だ」「すべて遅い」と思わせているものは何ですか。
あなたの心を塞いでいる石は何でしょう?
それは「不信仰」という石です。
自分を見るのは終わりです。信仰の一歩を踏み出したら何が起こるだろうと心配するのも終わりです。
心が高揚したときだけ「信仰的」になることも終わりにします。
私たちはどんなときでも「信じる」者です。
石を取りのけましょう。「不信仰」を取りのけて「信じる」のです。
そうすれば、私たちは「死んでいた人」がよみがえるのを見るでしょう。
信じるなら、私たちは「神の栄光」を見ます。
主よ、信じます。
私は石を取りのけます。
神の栄光を見させてください。