ヨハネ20:21~22
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
恐れて隠れていたのです
弟子たちは、完全にイエス様を見失っていました。
弟子たちは、人々が自分たちの先生をどのように扱ったのかを見ました。自分たちの先生が引き回されて十字架に架けられる姿を見たのです。
「見つかれば、自分たちも同じ目にあうかもしれない」と思って隠れていたのです。
ついこの間まで、弟子たちは、イエス様が与えてくださった権威を用いて、奇跡を行っていたのです。悪霊どもが言うことを聞くと言って喜んでいたのです。
しかし、イエス様を見失った途端に、彼らは「臆病の霊」に捕らえられました。
彼らのうちには、燃える思いも、将来のビジョンもありません。ただ、なんとか「生き延びよう」としているだけでした。
イエス様が「見えなくなった」ので「失った」と思ったわけです。彼らは、まだ「見えない領域」があるということを学んではいなかったのです。
そのような状態の弟子たちの「真ん中」にイエス様は立たれました。
そして「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われました。
部屋の鍵をかけて、恐れて隠れていた弟子たちを「遣わす」と言われました。
条件は何もありません。
「あなたがたが祈れるようになったら遣わそう」とは言われませんでした。
「あなたがたが恐れなくなったら」とも言われませんでした。
ただ「聖霊を受けなさい」とだけ言われたのです。
イエス様は「聖霊を受けなさい」と言われた後、再び、姿を消されました。昇天されるまで、ずっと弟子たちとおられたわけではないのです。現れたり、消えたりなさいます。
弟子たちは、これから「見えない聖霊」とともに歩むことを覚えなければなりません。そして、聖霊様こそ「さらに大きな業」の源であることを知るのです。
私は「生き延びよう」とだけ考えている弟子でしょうか。
自分の生活がギリギリ守られればいいと考えているでしょうか。
そのように考えているならば、私はイエス様を見失っているのです。「見えない領域」があることを知らない人のように歩んでいるのです。
イエス様の御声を聞きましょう。
「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」
主の弟子はみな遣わされます。それが弟子というものなのです。
恐れていても、ビクビクしていても、あなたが「どのような状態」であったとしても関係ありません。
主イエスが真ん中に立たれます。
イエス様は、あなたの「状態」「状況」を気にされません。気にするのは、いつも私だけです。
「聖霊を受けなさい」
必要なのはそれだけです。そして、それだけで十分なのです。
私たちの「気にしていること」は、聖霊を受ければ問題ではなくなります。
「状況」や「状態」が何とかなってから召しに応じるのではありません。今、恐れがあったとしても、今、ビクビクしていても「遣わします」という御声を聞いたら応じるのです。
必要なのは「聖霊を受ける」ことだけです。
まず応じるのです。まず聖霊を受けるのです。
その後のことは、主が導いてくださいます。「待て」も「進め」も導かれるままです。
主の御声を聞かせてください
主が行けと言われるところに行きます
主がせよと言われることをします
聖霊様の力に帯びさせてください