No.309 それは「自我」の問題です。

夜明け前

創世記32:24
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

神は格闘してくださったのです

ヤコブは、自分が犯した過ちに向き合わなければなりませんでした。20年前、兄のエサウを騙して長子の権利を奪ったことを、今さらながら後悔することになります。

ヤコブは恐れていました。

創世記32:11
どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。

ヤコブは「神の約束」を持っています。

創世記32:12
あなたは、かつて言われました。「わたしは必ずあなたを幸せにして、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする。」と。

ヤコブは、ラバンとの確執のゆえにカナンに戻ることを決めました。しかし、主のみことばも賜っていました。「カナンに帰れ」と主が言われたのです。

エサウに会うために「抜かりなく」準備もしました。

ヤコブは、エサウと会うために万全の計画を立てました。贈り物をたくさんしてエサウの心をなだめようと考えました。万が一のことも考えて、自分の持ち物を「二つの宿営」に分けました。こうしておけば、一つは打たれても、残りの一つは逃れられると考えたからです。

それに、ヤコブは「一人」ではありませんでした、「神の陣営」をヤコブは見たのです。多くの御使いが彼に現れました。

しかし、それでも「恐れ」は消え失せないのです。

創世記32:24
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

全能の神は「人」と格闘する必要などありません。

主は、私たちと「格闘」などする必要はないのです。主は「お命じになって」私たちは「従う」それだけのことなのです。

しかし、それでもあわれみ深い神は、ヤコブと格闘をしてくださったのです。

主は、ヤコブの恐れをご存知でした。ヤコブに「過去」が追い迫って来て、震えおののいていることをご存知でした。

その「恐れ」は「自我」から生じているのだということをヤコブは知らなければなりませんでした。

私は、時々、自分はヤコブのようだなと思います。

主は、多くの「みことばの約束」をくださっています。私たちは「みことば」を握って雄々しくあるべきなのです。しかし、それでも私は、ヤコブのように震えおののいてしまうのです。

その「恐れ」の正体は、私の「自我」です。それは「砕かれる」必要があるのです。

ある先生が言いました。

「神と格闘してはなりません。打たれる前に明け渡すほうが良いのです」と。

確かに、本当ならばそうです。全能の神と「格闘する」など不遜なことです。しかし、私たちの「自我」は格闘せねば「砕かれない」ことがあるようです。

創世記32:25
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。

ヤコブの「ももの関節」は打たれました。それは痛かっただろうと思います。夜が明けたとき、彼は「足を引きずって」いました。

痛い思いをしましたが、ヤコブの「何か」が変わりました。主は、エサウを遠ざけるのではなく、ヤコブを取り扱うという方法を取られたのです。

本当は、格闘などせず「へりくだる」のが一番良いのでしょう。しかし、私には、なかなかそれができないようです。

「恐れ」が追い迫って来るなら格闘しなさい。

「不安」で押しつぶされそうなら格闘しなさい。

あわれみ深い主は、あなたと「格闘」してくださるでしょう。私たちは「自我」が取り扱われるまで、御前にすがりつきましょう。必死でしがみつきましょう。

主は、必ず、私の「自我」をも取り扱ってくださると信じます。

私は、主にすがりつきます
主は、私を取り扱ってくださいます
私は、必ず変えられます