マルコ9:50
塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょう。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。
私たちは「地の塩」です。
私たちは「地の塩となれ」と命じられているのではありません。イエス様は「あなたがたは地の塩です」と言われたのです。
イエス様の弟子は、もうすでに「地の塩」です。私たちは「地」にあって、すでに「塩」なのです。
私たちに命じられているのは、「地の塩となること」ではなく「塩気を保つこと」です。
「塩」とは、「味をつけるもの」であるとイエス様は言われました。「塩気」は、味をつけるのです。そして、そのままでは食べることのできないものを「食べることができるようにするもの」です。
お料理をする人なら、すぐにわかるでしょう。
「塩」は、料理の味をまとめる役割があります。相反する味を一つにしたり、一方の味を引き立てたりするのです。
たとえば、おしるこを作るときには、砂糖だけではなく「塩」も入れます。甘さが引き立ちますし、小豆の味も引き立ちます。
スイカに塩をかけて食べたりしますね。それも、スイカの甘みを引き立てるためでしょう。
酢飯にも、塩を一つまみ入れたりしますが、それは「酸味」を和らげるためです。
塩は「引き立てたり」「抑えたり」する役目を担っているのです。
塩は「自己主張」しない存在なのです。
実際、ただ「塩味」だけが際立つ料理は「塩辛く」て食べることができないでしょう。
適度な塩は、お料理に「調和」を生みます。食べられないものや、食べにくいものが「美味しく食べられるようになる」のです。
私たちは「地の塩」です。
「あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい」とイエス様は言われました。
私たちが「塩気を保つ」のは「互いに平和に過ごす」ためです。
以前の新改訳では「和合して暮らしなさい」と訳されていました。
「和合」とは、広辞苑によると「やわらぎあうこと・仲良くすること」「まぜあわせること」です。
「塩気を保つ」ことを求めましょう。
そうすれば、あなたは「食べられないもの」を「美味しく食べられるもの」にすることができるでしょう。
あなたが、そこに存在することで「和合」「平和」が生まれるようになります。
あなたがするべきことは、ただ「塩気を保つ」ことだけです。
「塩気を保つ」ためには、キリストの弟子でなければなりません。弟子であるならば「地の塩」なのです。
弟子でなくなれば、同時に「地の塩」でもなくなります。
塩の大敵は「湿気」です。
ですから、あなたの信仰を「湿気」させてはなりません。湿っぽくなってはならないのです。
聖霊の火を求めましょう。
聖霊によって燃やされているならば、私たちが「湿気」で役に立たない塩になることはありません。
私は地の塩です
聖霊様の火を求めます
その火がいつまでも燃え続けますように