2025.12.20 岩に建てるシリーズ「終末の学び」を追加

【黙示録9章12節~21節】第六のラッパ、すなわち「第二のわざわい」

再臨を待つ

黙示録9:12
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。

第一のわざわいは過ぎ去りました

前回は「第五のラッパ」のわざわいまでを学びました。

この「第五のラッパ」は、ややこしいですが「第一のわざわい」と呼ばれています。

黙示録9:12
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。

ここで「第一のわざわい」と呼ばれているのは「第五のラッパ」のことです。

少し復習もかねて「封印」「ラッパ」「鉢」のわざわいについて整理しておきましょう。

使徒ヨハネは、子羊が「巻物」を受け取るのを見ました。子羊だけが「巻物」の封印を解くことのできる唯一の方です。

「第一の封印」から「第四の封印」までは、四つの生き物が「馬と乗り手」を呼び出していました。

「第五の封印」では、殉教者たちのたましいが叫んでいました。

「第六の封印」では、天変地異、大きな地震が起こります。

しかし、まだ「巻物」が開かれたわけではありません。

「第七の封印」が解かれたとき、巻物が完全に解かれました。

「第七の封印」が解かれると「七人の御使い」にラッパが与えられました。

ここから「ラッパのわざわい」が始まります。つまり「巻物」の内容が飛びでてくるのです。

「第一のラッパ」から「第四のラッパ」までは、自然災害です。地の上に、大きなわざわいが及びます。

しかし、直接「人」に危害が加えられることはありませんでした。もちろん、災害に巻き込まれて被害に遭うということは起こります。多くの人のいのちが失われます。

「第五のラッパ」から少しわざわいの様子が変化します。悪魔的な要素が加わると言えばいいでしょうか。

「人が苦しむ」ことが目的とされているように思います。これが、前回、学んだ「いなごのわざわい」ですね。

「第五のラッパ」から「第七のラッパ」までの「わざわい」は、今までのものとは明らかに「何か」が違います。不気味さが増しています。悪霊たちの活動が目立ちます。

ここから「七年間の患難期が始まる」としている注解者も多くいます。また、ここから「最後の三年半の大患難期」が始まるという意見もあります。もちろん、他の意見もあります。

結論はでませんが、一応、一番、分かりやすいように思える解釈だけ引用しておきます。

この9章で大事な聖句は十二節です。「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお、二つのわざわいが来る」ここに「ヨハネの黙示録のクロノロジーがあること」を知らねばなりません。「第一のわざわい」は、患難時代の前兆としてのわざわいであり、「第二のわざわい」は患難時代前半の三年半の災害、「第三のわざわい」は、患難時代後期の三年半の大患難時代です。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション

「第一のわざわい」とは、「第五のラッパ」のことです。

「第二のわざわい」とは「第六のラッパ」です。

そして「第三のわざわい」は「第七のラッパ」です。これは「七つの鉢のわざわい」と同じです。

「第七のラッパ」と「七つの鉢のわざわい」は、同じものです。ですから、「第三のわざわい」とは「七つの鉢のわざわい」全部のことです。(「七つの鉢」については、また追々、学んでいきます)

つまり、「第五のラッパ」が吹かれると、カウントダウンが始まるのです。

天において「後、三つ」という声が響き渡ります。後、三つなのです。それで、すべてが終わるのです。

そして、前回「第五のラッパ」つまり「第一のわざわい」を学びましたね。

もう一度、十二節を読みましょう。

黙示録9:12
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。

「いなごのわざわい」によって、人々は「直接」害を受けました。彼らは、五か月間、苦しみました。死を願うけれど、死すら逃げて行く、そのような想像を絶する苦しみを味わいました。

しかし、これは「終わり」ではありません。まだ「第一のわざわい」なのです。

「見よ、この後、なお二つのわざわいが来る」のです。

今回は、この「第二のわざわい」すなわち「第六のラッパ」から学んでいきます。

第六のラッパが吹かれます

さて、第六のラッパが吹かれます。第二のわざわいが始まります。

黙示録9:13
第六の御使いがラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から、一つの声が聞こえた。

そこから、一つの声が聞こえます。

金の祭壇には、四本の角があります。地上の祭壇にも四本の角がありました。

黙示録9:14
その声は、ラッパを持っている第六の御使いに言った。「大河ユーフラテスのほとりにつながれている、四人の御使いを解き放て。」

祭壇から発せられた声は、第六のラッパを吹き鳴らした御使いに命じています。

権威ある御使いに命じているので、この声をイエス様だとする注解者もいます。もちろん断定はできません。しかし可能性はありますね。

その声は、御使いに命じて言います。

「大河ユーフラテスのほとりにつながれている、四人の御使いを解き放て」

「大河ユーフラテス」は、創世の昔から記されている重要な川ですね。

ユーフラテス川
西アジアで最長の川、270㎞あり、イスラエルの東(北)の国境。イスラエルにとって、その歴代の東の敵(アッシリア、バビロン)との国境をなした。古代ローマ帝国の東の国境でもあった。この川への言及ははるか昔「エデンの園」にさかのぼる。エデンを潤すために流れていた四つの川の一つで「罪」はここから始まった。
一人で学べるキリストの啓示 K・フルダ・伊藤著 文芸社

エデンの園からは、一つの川が湧き出ていて、それは四つの源流となっていたと創世記には記されています。

エデンから湧き出た四つの川の一つが「ユーフラテス」です。

この川、ユーフラテスは、常にイスラエルと他の国の国境でした。

黙示録9:15
すると、その時、その日、その月、その年のために用意されていた四人の御使いが解き放たれた。人間の三分の一を殺すためであった。

「四人の御使い」は、「その時、その日、その月、その年」のために用意されていたと黙示録は言います。

この「四人の御使い」については「邪悪な御使い」なのか「神の御使い」なのか、はっきりとした決め手に欠けます。

「邪悪な御使い」とする根拠は「つながれていた」ということです。

つながれていた御使いは、明らかに邪悪な御使いです。もし彼らが邪悪でなかったなら、どうして、つながれていたのでしょう。彼らを解き放つことは、この地上に洪水の流れを放つことなのです。
Thru The Bible J・バーノン・マギー神学博士 福田弘之師による日本語版より

シンプルな解釈ですね。確かに「邪悪」だから「つながれていた」と考えるのは自然な流れだと思います。

一方、これは「神の御使いだ」という意見もあります。

ここには、この四人の御使いが、神の定めの時まで「つながれている」と記されています。また15節には「定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使い」とあります。これらのことから、神によって用意された御使いたちが、大川ユーフラテスのほとりにつながれていた、と考えることもできます。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版

つまり、この四人の御使いが「防波堤」の役割を担っていたという考え方です。

いずれにせよ、この四人の御使いたちは解き放たれるのです。

そして、彼らが解き放たれる目的は「人間の三分の一を殺すため」でした。

四人の御使いが何であるにせよ、彼らが解き放たれることによって「世界」が動きます。

ユーフラテスは、東西の境界線とも言えます。その境界線が、何らかのことが起こって崩れるのです。

黙示録9:16
騎兵の数は二億で、私はその数を耳にした。

「人間の三分の一」を殺す方法は、二億の騎兵を用いてということになります。

「その時、その日、その月、その年」に四人の御使いが解き放たれると、洪水のように軍隊が現れます。

四人の御使いがとどめているのは「二億の騎兵」でした。

この「二億」という数字から、これほど多くの騎兵を備えられるのは「中国」しかいないと多くの人が言います。

しかし、私は、今、存在する「具体的な国名」には、さほど意味はないのではないかと思います。恐らく、東の様々な国の人々が「二億」の中に含まれているでしょう。

ただ「二億の騎兵」が、途方もない数だということは確かです。

四人の御使いが「四つの国」を表すという意見もあります。

「第二の災い」は、まさに第三次世界大戦のレベルです。この災いのために、四つの国が解き放たれます。ユーフラテスのほとりですから、イラクのあたりです。イラクに兵器を売っているのが中国です。これによって人類の三分の一が殺されます。
世の終わりが来る 奧山 実著 マルコーシュ・パブリケーション

また、この「二億」は、本当に「人類」なのかと疑問視する意見もあります。

この二億というのは人類でしょうか。ここまで私は、その可能性もあることを示してきましたが、でも率直に言って、ここに書かれているのは悪霊の侵略で、サタンが底知れぬ穴を開いた更なる結果だと私は信じています。
Thru The Bible J・バーノン・マギー神学博士 福田弘之師による日本語版より

さてさて、だいぶと頭がこんがらがってきましたね。

この辺で、この話は終わりにしておきましょう。

正直なところ、四人の御使いが「邪悪」であっても「神の御使い」であっても、私は「どちらでもいい」と思っています(笑)

二億の騎兵が「どこの国から出るのか」ということにも、さほど興味はありません。悪霊が関係していることに疑問の余地はないでしょう。しかし、それ以上は考えても混乱するだけです。このようなことに、詳しい先生方は他にたくさんおられますから、すべてお任せしたいと思います(笑)

大切なことは「これがかならず起こる」ということだけです。これは、大げさに作り上げられた空想の話ではなく、現実に必ず起こる出来事だということです。

定められた時があるのです

定められた「時」について考えてみましょう。

黙示録9:15
すると、その時、その日、その月、その年のために用意されていた四人の御使いが解き放たれた。人間の三分の一を殺すためであった。

「その時、その日、その月、その年」が定められているのです。

「年」だけではなく「時」までが定められています。

そして「その時」のために、あらじめ「用意」されているものがあるのです。

私たちは、神様が「時間」を創造されたことを忘れてしまいがちです。

「時」は、生まれたときから刻まれているので、私たちは「時」のない生活を想像することが難しいのです。

永遠に「時」はありません。私たちは、いずれ「永遠」に入れられます。私たちが向かう先には、もはや「時」は存在しないのです。

主は、すでに「終わり」を見ておられます。

そして「その時」のために用意をしておられます。

私たちは「これから何が起こるのだろう」と必死になって探します。ある程度は、それは有効だと思います。主は、御言葉の中に、私たちが「知るべきこと」を記してくださっています。

「黙示」とは、この学びの一番初めに言いましたが「明らかにする」という意味です。「黙示録」は、謎を深めるためのものではなく、謎が解かれるための啓示の書です。

しかし、それにしては難しいですね(笑)

これは個人的な意見ですが、私は「謎が解き明かされる」ということは「すべてが理解できる」ということではないと思っています。

私は、黙示録を学ぶときに必要なのは「信仰」だと思うのです。

「何が記されているのか理解できない」と私たちは思います。

ゆえに「信仰」が必要なのです。確かに「理解はできない」でしょう。しかし、私は「語っておられる方は真実である」と信じます。そして「真実な方」は、また「誠実な方」「愛なる方」であることも信じています。

黙示録は、私たちの生き方を「試す書」であると私は思います。

あなたは、主が「すべてをご存知だ」ということを信じますか?

主が「終わり」からご覧になっていて、あなたをご自身の定めるところへと引き寄せてくださっていることを信じますか?

私たちの人生にも「理解できないこと」が起こるでしょう。

けれど、私たちは信じます。

「どうして、神様」と叫びたくなるような出来事が起こったとしても、それでも信じます。

主は「終わり」を知っておられます。これは、まだ「過程」です。主は「時、日、月、年」をあらかじめ定めておられる全能の神です。

私たちは、目の前の出来事ではなく、その出来事の上におられる方の「真実」を信じます。

私たちは、黙示録に記されていることの上におられる方を信じます。私は、私の神が「愛」であることを信じます。

詩篇31:14~15a
しかし 主よ 私はあなたに信頼します。私は告白します。「あなたこそ私の神です」
私の時は御手の中にあります。

私たちの「時」は御手の中にあります。

私たちの「時」を握っておられる方は「信頼」すべき方です。この方に信頼する者は決して失望することはありません。

主が「時」を定め、主があらかじめ「用意」されたことを信頼します。理解できなくても「お任せ」します。

目の前のことに振り回されるのではなく「時を定めた方」を見上げるのです。

私たちは、そのように歩みましょう。

そして、これから続けて黙示録を学ぶとき、そのような視点を忘れないようにしましょう。

それでも、人々は悔い改めはしません

さて、本論に戻りましょう。

黙示録9:17
私が幻の中で見た馬と、それに乗っている者たちの様子はこうであった。彼らは、燃えるような赤と紫と硫黄の入りの胸当てをつけており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄が出ていた。

多くの人がこれを「戦車」だと考えているようです。そうですね、そうかもしれません。私たちが想像もできない「戦車」が開発されていても不思議ではありません。

このような動物を想像することはできません。悪霊に憑かれた動物かもしれませんが、このような恐ろしいものにたとえることによって、近代兵器が表されていると考えた方がよいでしょう。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版

「馬」と呼ばれているのですから、何らかの「乗り物」なのでしょう。そして、それには「乗り手」がいるようです。

この馬の口から「火」と「煙」と「硫黄」が出ていたとヨハネは言っています。さらに、それら「三つ」は「災害」であるとも記されています。

「災害」というからには、通常の「武力行使」とは違う「何か」が行われるということでしょうか。

黙示録9:18
これら三つの災害、すなわち、彼らの口から出る火と煙と硫黄によって、人間の三分の一が殺された。

これら「三つの災害」によって、人間の三分の一が殺されます。

ユーフラテスのほとりにつながれていた四人の御使いは「目的」を果たしたということです。

黙示録9:19
馬の力は口と尾にあって、その尾は蛇に似て頭を持ち、その頭で害を加えるのである。

蛇の頭に似た尾を持つ馬…、もう何と言っていいやら分かりません。

この描写を見ると、これは「悪霊の大軍だ」と言いたくなる気持ちも分かりますね。

とにかく、恐ろしいものが地上に現れて、人々次々といのちを落としていくのだということは分かります。

黙示録9:20
これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くこともできないものを、拝み続けた。

これらの災害を生き延びた人々が存在します。驚きですね。

しかし、彼らはこのような災害に遭っても「悔い改め」ようとはしません。というよりも、「悔い改め」ることができないのかもしれません。

ここで「悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず」と、わざわざ記されているのですから、主は、彼らが「悔い改め」に進むことを願っておられるようにも思えます。

しかし、それでも「悔い改め」はなされません。

それは、彼らが「光よりも闇を愛した結果」です。

ヨハネ3:19
そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

彼らが「光」ではなく「闇」を愛したので、主は彼らを「暗闇の中」に置いたままにされました。

「暗闇の中」にいる人は、自分は「見えている」と思って生きていますが、実際には「見えていない」のです。

彼らは「闇の中」を歩いているので、光に照らされた世界を知らないのです。

もし、知っていたならば「見ることも聞くこともできないもの」を拝み続けたりしないでしょう。

聖徒の目から見れば、偶像を拝むことは「愚の骨頂」です。災害の時には運んでやらなければならない「物」を拝み続けるなんて馬鹿げています。

しかし、彼らは気づきません。暗闇の中に入るからです。ですから、このような災害が起こっても偶像を拝み続けるのです。

黙示録9:21
また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。

アダムとエバの最初の子どもは、殺人の罪を犯しました。世の終わりまで、人々はカインの罪を犯し続けます。

魔術的なもの、つまりオカルト的なことは、これから益々、盛んに行われるようになります。それに伴い、多くの人が「麻薬」に溺れるようになるだろうと私は思います。

ここで「魔術」と訳されている語は「魔術に使う薬」のことです。「魔法薬」「呪文」などと訳すこともできます。

分からないでもありませんね。人々は、苦しみから逃れるために「薬」「呪術」などに頼るようになるのでしょう。しかし、それらは、さらに悪霊の束縛を強めるだけです。

「殺人」「魔術」「淫らな行い」「盗み」という罪は、最古のものだと思います。

人類は最初から、このような罪を犯してきました。そして、終わりまでこれらの罪を犯し続けます。

これは、あくまで個人的な意見ですが…

これらの四つの罪は、人類が重ねて来た罪のゆえに、悪霊の束縛も強いように思います。敵は、この四つの分野に強い足掛かりを得ているのではないかと感じます。

終わりの時、悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々は、より苦しむことになるでしょう。

彼らは、自分たちが「悪魔に捕らえられている」と自覚してはいないかもしれません。(もちろん、自覚している人も確かに存在します)

サタンが「良い主人」でないことは明白です。自分が捕らえた者を「保護する」などという気はサラサラありません。サタンは「人を苦しめる」ことを好むのです。

愛する兄弟姉妹。

ゆえに、ヤコブは言うのです。

ヤコブ4:4
節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。

私たちは「世の友」となることはやめましょう。

それは「神の敵」となることです。そして、それは「悪魔の配下」になるということです。

私たちは、患難時代を生きる人々を黙示録を通して見ることができます。

彼らの「行い」を「愚かだ」と笑って終わることは簡単です。

けれど、もし私たちが「世の友」として歩むならば、私たちも同じ「愚かさ」に身を投じているのです。

災害には遭わなくても、暗闇の中を歩くことになるのは同じです。

覚えてください。

暗闇の中に歩いている人は、自分が「暗闇の中」にいることには気が付けないのです。

光の中に移されて、初めて「ああ、暗闇の中を歩いていたのだな」と分かるのです。

ですから、光の中に居続けましょう。光の中を歩みましょう。

そうすれば、主の光ですべてが明らかにされます。たとえ、私たちが間違って罪を犯したとしても「明らか」になれば悔い改めることができるでしょう。罪は、言い表すなら赦され、きよめられるのです。

「悔い改める」ことができるのは、あなたが「光」に照らされているからです。そして、それは恵みなのです。

「神の友」として歩みましょう。

主は、あなたと一緒に歩きたいと願っておられます。

シャロームを祈ります。