黙示録8:1
子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった。それから私は、神の御前に立っている七人の御使いたちを見た。
子羊が第七の封印を解かれました
さて、子羊がとうとう第七の封印を解かれます。
子羊イエスが、第七の封印を解かれました。
天のすべてが子羊を見つめています。使徒ヨハネも、次はいったいどのようなことが起こるのかと固唾を飲んで見つめていたことでしょう。
しかし…
何も起こりません。
いえ、言い換えるならば「何も起こらないことが起こった」のです。
天に「半時間ばかりの静けさ」が起こりました。
「半時間」とは、ヨハネの体感なのでしょう。天に「時間」はありません。そこには「永遠」があります。しかし、人の感覚では「半時間」ばかり「何も起こらない」という時間があったのです。
「静けさ」つまり「沈黙」がありました。
四つの生き物が叫ぶ「聖なるかな」の声も聞こえません。御使いの賛美も、長老たちの賛美も聞こえません。
患難から抜け出て来た大勢の群衆も、身じろぎひとつしません。使徒ヨハネも、おそらく、ピクリとも動けなかったでしょう。
「30分」の沈黙は、かなり長いように感じます。この間、まったくの無音であったのです。
天では、確かにいつも賛美が鳴り響いているように思えます。主の御前には、絶えず礼拝がささげられているでしょう。
しかし、常に「にぎやか」であると私は思いません。
「あなたに安らぎを与え」とは、「あなたを黙らせ」と訳すこともできます。
主は、私たちに「静寂」を与えてくださいます。私たちは、主の愛の中で「沈黙」させられることがあるのです。
愛する兄弟姉妹。
主の御前で「沈黙」することを恐れてはなりません。絶えず「言葉」を発している必要はないのです。主は、その「静寂」の中でご自身の愛を明らかにされます。私たちは「静かな湖畔」に憩う神の羊なのです。
主は、私たちを「黙らせる」ことがあるのです。そして、また「高らかに歌う」という歓喜を与えてくださることもあるのです。
ですから、天において「静けさ」がおこることは、常々、あったと思われます。
しかし、子羊が第七の封印を解かれた後にもたらされた「静けさ」は、何やらいつもとは違ったようです。
これは「嵐の前の静けさだ」と多くの注解者が言っています。
御使いたちは「肉なる者」ではありませんが、天にいるすべての者が「主が立ち上がられる気配」を感じたのかもしれません。
文字通り「立ち上がられた」というわけではないでしょう。主は、まだ御座に座しておられます。しかし、何かを成す決定を下されました。
第七の封印が解かれたと言うことは「すべての封印が解かれた」と言うことです。
つまり、この後「神の意志」が明らかにされるのです。巻物の「内容」が解き放たれるのです。
御使いや長老が、巻物の「内容」を知っているのかは分かりません。しかし、それが「神の意志」であることは理解していたと思います。これから「大患難」が始まることも理解していたでしょう。
主が「成されること」に対して、天は「静まり」身じろぎしませんでした。
ここで、もう一度、使徒ヨハネが記したことに注目してください。
「静まり返った」のは「天」です。
「天」に「静けさ」があったのです。
「全地」ではありません。「世界」がとも書かれていません。
「静けさ」があったのは「天」だけです。
つまり、地上は「にぎやかしいまま」であったということです。
「天」は、いつも「神」に注目しています。「天」にいる者はみな、「神」だけを見つめています。
ですから、神が何かをなさることに敏感に反応します。
第七の封印が解かれたあと、「天」は「神」から目を離すことができなかったのでしょう。
しかし、「地上」は違います。このとき、誰も「神」に注意を払ってはいません。
自分たちのことで精一杯なのです。
「食べること」「飲むこと」という日常的なことを追い求めています。
「めとること」「嫁ぐこと」のような、いわゆる「ハレの日」が人生の最大の出来事だと思っています。
確かに、私たちは生きなければなりません。食べて、飲んで、人と関わって、できるなら楽しく暮らしたいと誰もが望みます。
しかし、いくら「楽しく暮らせた」としても「永遠のいのち」を失うならば…
私たちは「目覚めて」いましょう。
確かに、私たちには「いつ」とか「どんなとき」ということは分かりません。
ですから、なおのこと「目覚めて」いる必要があります。
私たちは「地上」に生きてはいますが「天国に国籍を持つ者」です。
「天」が「神」に注目しているならば、私たちも「神」を見つめていなければなりません。
「見えない方を見るようにして」歩まなければならないのです。
私たちは「キリストとともによみがえらされた」のです。
ですから、よみがえりの主を見つめましょう。地にあるものを思うのはやめましょう。
いつの時代であっても、聖徒はみな「上にあるもの」を思いながら歩むのです。
天で「静けさ」があるとき、地の人々は「にぎやかしいまま」です。
天の「静けさ」と地の「騒々しさ」を比べるとき、私は恐ろしさを感じずにはいられません。
神の御思いと、人の思いは、どれほどかけ離れているのだろうと思います。
私たちは、常に、御霊に依り頼みましょう。神の御思いを正確に知る唯一の方が、私たちのうちにおられます。
この方に耳を傾けつつ歩みましょう。おそらく、まだ第七の封印は解かれてはいないでしょう。
今は、聖徒が「目覚めて」祈るべき時です。
「天に半時間ばかりの静けさがあった」
この静けさについて、私たちは思い巡らせましょう。実に、様々なことが思い浮かんできますね。
あなたは、この「静けさ」に何を感じますか。
神の御前に立つ七人の御使いと香炉を持つ御使い
子羊が第七の封印を解かれた後、使徒ヨハネは七人の御使いを見ました。
まず「神の前に立っている」という記述から、この七人は「位の高い御使いだ」と言われています。そうかもしれません。
ある人は、この七人のうちの一人は「ミカエルだ」と言います。また「ガブリエルは絶対に七人の一人だ」という人もいます。それも、そうかもしれません。けれど、確かなことは何も分かりません。
バプテスマのヨハネの父であるザカリヤは、御使いのお告げを信じることができませんでした。
そのとき御使いは言ったのです。
「この私は神の前に立つガブリエルです」
ガブリエルは、自分の名を明かし「神の前に立つ者だ」と言いました。それは「権威を授かった者だ」という宣言です。ゆえに、その権威をもって「ザカリヤを話せないようにした」のです。
この七人の御使いの位については、私には分かりません。
けれど、彼らが「権威」を授かったということは間違いないでしょう。この七人は「神の前に立って」いるからです。
彼らには「ラッパ」が与えられました。それには、ただ「吹く」という役割を担うだけではなく「解き放つ」という権威が伴っていると思えます。
民数記に記されている「銀のラッパ」が、イスラエルのための合図であったように、御使いの「ラッパ」も何かのための合図なのでしょう。
彼らが「ラッパ」を吹きならすたびに、地上に「何か」が起こるのです。
さて、この七人の御使いとは「別の御使い」を使徒ヨハネは見ました。
七人の御使いに「ラッパ」が与えられましたが、すぐには吹けません。
ラッパを鳴らす前に「香」が献げられる必要があったのです。
黙示録5章には「香は聖徒たちの祈りであった」と記されています。
ですから、この別の御使いに与えられた「たくさんの香」も、聖徒たちの祈りであったと考えられます。
さて、では「たくさんの香」が「すべての聖徒たちの祈りに添えて」献げられると書かれているのはなぜでしょう。「聖徒の祈り」に「すべての聖徒の祈り」が添えられるのでしょうか。少し、理解が難しいですね。
以下のように解釈すると「すっきり」します。
「すべての聖徒」ということばには定冠詞がついています。日本語でその意味を表そうとすれば、「そのすべての聖徒たち」と言わなければなりません。もちろん、六章九節の聖徒たち(祭壇の下にいるたましい)を指しています。その聖徒たちの祈りとともに、御座の前にある祭壇の上にささげるため、「もうひとりの御使い」にたくさんの香が与えられました。
黙示録 J・B・カリー著 伝道出版社
確かに、原語では「すべての聖徒たち」の前に定冠詞がついています。私も、この「すべての聖徒たち」は、祭壇の下にいた殉教者のたましいを指すのだろうと思います。
ラッパが吹き鳴らされ、大患難が始まる前に「たくさんの香」に「殉教者たちの祈り」が添えられるのでしょう。それらは合わさって、神の御前に立ち上ります。
香の煙は「立ち上る」と記されていることに、私は励ましを受けます。
御使いが献げた香の煙は、横に広がることはありません。私たちの祈りは、必ず、神の御前に「立ち上る」のです。
これは、慰めですね。励ましです。私たちの祈りは「覚えられて」います。あなたの祈りは、決して無駄にはなりません。私たちは、ますます熱心に祈る者とされましょう。
祭壇の火は投げつけられます
さて、主の御前に「香」を献げたので、御使いの香炉は空になりました。何も残ってはいません。
空になった香炉には、祭壇の火が満たされました。燃えさかる炭を満たしたということでしょうか。
御使いは、香炉に満たした火を「地に投げつけた」のです。
思い出してください。
まだ「ラッパ」は吹き鳴らされていません。七人の御使いは、まだ「ラッパ」を持っているだけで「吹く用意」すらしていないのです。
しかし、燃える香炉が投げ込まれたとき「地には異変」が起こります。「雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった」のです。
「香炉の火」は、今から起こることの前触れと言えるかもしれません。
巻物に書かれていることの一つは「報復」ではないかと思います。
祭壇の下にいた人々の祈りはこうでした。
彼らの祈りは「地に住む人々への復讐」です。
「たくさんの香」に彼らの「復讐を求める声」が添えられて献げられたことを覚えてください。
彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちたのです。
時々、誤解されてしまうようですが、大患難はサタンが起こすものではありません。大患難とは「神の御怒り」が注がれるときです。
ですから、大バビロンも反キリストも滅びます。サタンは一時的に縛られますが、その後、最終的には、火と硫黄の池に投げ込まれます。
「悪く見えることはすべて悪魔の仕業」と考えているならば、大患難の教えにつまずいてしまうかもしれませんね。
ある人は、天に起こった「半時間ばかりの静けさ」は、優しい主なる神が裁きを躊躇なさったからだと言います。私は、主が躊躇されたからの静けさではないと思いますが、主なる神が「優しい方」であることには同意します。
主は「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」ます。
主は、忍耐と慈愛の神です。
しかし、同時に「報復される方」でもあります。
私たちの神の御手には「二種類の報い」があるのです。
イエス様の福音に従い、主を愛する人々には「報いとして安息」が与えられます。
しかし、福音に従わない人々には「報いとして苦しみ」が与えられるのです。
いつの日か、そのような日が来ます。
神は「日を定めて」おられます。それは必ず来ます。
しかし、いつも言うように「今は恵みの時、今は救いの日」です。
主は、今、この地に「怒り」ではなく「恵み」を注いでおられます。慈愛を持って忍耐しておられます。
愛する兄弟姉妹。
天の鼓動を聞きましょう。私たちは「地のもの」を見て歩みはしません。
「地上」がどれだけ楽しそうに見えても、逆に苦しさが蔓延したとしても、それに振り回されはしません。
自分以外のすべての人が「食べたり、飲んだり」「めとったり、嫁いだり」と「世」のことに夢中になっている間、ノアだけは箱舟を造り続けたのです。
「世の終わりだとか、暗い話ばかりするな」と人々は言うでしょう。
「天を見上げるなんて、夢物語に生きているヒマなどない」と言われるかもしれません。
それでも、私は「世の終わり」を語り続けます。必ず「さばき」が来ることを伝え続けます。そして同時に、今は「恵みの時」であることも伝えたいのです。主の愛は、明らかにされています。御父は、御子をさえ惜しまずに与えてくださったほどに世を愛されたのです。
私たちは「天国人」として生きましょう。
「夢見がちな人」と思われてもいいではないですか。最終的に「穀物」を配って世界を救ったのは「夢見る者」と呼ばれたヨセフなのです。
世の終わりの暗い時代に「夢見ることのできる者」とは、ただ「天を見上げて生きる者」です。
そして、「夢見る天国人」だけが「いのちのパン」を配ることができるのです。
ノアのように歩みましょう。ヨセフのように生きましょう。
イエス様を愛して従うあなたには「報い」が待っています。勝利者の冠と安息は、あなたのものです。
私たちは、祈りましょう。あなたの祈りのすべては、御前に聞き届けられているのです。
いつの日か、あなたの祈りに「殉教者たちの祈り」が添えられます。燃える香炉が地に投げつけられます。
しかし、それまでは、私たちは「主イエスの血」を語りましょう。「血による贖い」を叫びましょう。
主の御前に憐れみを求め続けましょう。
「今は恵みの時、今は救いの日」なのですから。
祝福を祈ります。

